三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第一話 — 読了目安 約20分

二〇三号室の記録

一 引き継ぎ

叔父が死んで、アパートを相続した。

正確に言えば、押しつけられた。築五十年の木造二階建て、全八室。「明星荘」という古めかしい名前のそのアパートを、親族は誰も欲しがらなかった。駅から遠く、建物は古く、家賃は雀の涙。解体するにも金がかかる。独り身で時間の融通が利くという理由で、管理人の役目ごと私に回ってきた。

叔父は几帳面な人だった。遺品の中に、管理に関する書類が几帳面に揃っていた。賃貸契約書の綴り、修繕の領収書、そして、古びた大学ノートが十一冊。

ノートの背には、通し番号と年代が書いてある。一冊目は昭和四十八年。管理日誌だった。初代の管理人──叔父の前の、そのまた前の誰かから、代々書き継がれてきたものらしい。

暇だったのだ、と言い訳しておく。私はそれを、一冊目から読み始めてしまった。

最初のうちは、ただの記録だった。「一〇一号室、水道の蛇口交換。部品代四百二十円」「二〇二号室、山口様入居。挨拶に見える。折り目正しい青年」。昭和の下宿屋の空気が匂い立つようで、微笑ましくすらあった。

二〇三号室が初めて出てくるのは、一冊目の半ば。昭和四十九年の梅雨だ。

「二〇三、井上様より苦情。隣室の物音がうるさいとのこと。しかし二〇二は先月より空室。聞き間違いであろうと伝える」

その三行から、すべてが始まっていた。

二 日誌・昭和

井上という入居者は、その年の秋に退去している。理由の欄には「一身上の都合」とだけある。

次に二〇三に入った学生は、二年もった。日誌には時折、こんな記述が挟まる。

「二〇三、佐々木様。夜中に天井を叩く音がすると言う。上は物置にしている二階の空き部屋で、誰も入れぬはず。鼠であろうと答えたが、佐々木様は『叩き返すと、止む。少ししてまた叩いてくる。鼠がそんな律儀なことをするか』と言う。返す言葉がなかった」

「二〇三、また苦情。今度は壁の中から『数を数える声がする』と。一から順に数えて、百二十三で止まり、また一から始まるそうだ。数えている間は眠れるが、止まった後の静けさで目が覚めるという。意味が分からぬ。医者を勧めるべきか」

佐々木という学生は卒業を待たずに退去した。その後も、二〇三だけ入れ替わりが早い。半年、一年、もって二年。他の部屋には十年選手の住人が何人もいるのに、だ。

昭和五十六年、日誌の筆跡が変わる。管理人が代替わりしたのだ。新しい筆跡は最初の頁にこう書いている。

「前任の田村さんより引き継ぎ。総じて手のかからぬ良いアパートだが、二〇三についてのみ、口頭で申し送りを受けた。以下に記す。 一、二〇三を長く空室にしないこと。 二、家賃は相場より下げて構わない。誰かが住んでいることが肝要。 三、入居者から音の苦情が出ても、決して大掛かりに調べないこと。 四、理由は聞くな、とのこと。田村さんも先代からそう言われたそうだ」

この管理人は疑り深い性格だったらしい。数頁後に、こんな記述がある。

「申し送りに納得がいかず、二〇三の空室期間に泊まってみた。何ということもない。よく眠れた。ただ、明け方に妙な夢を見た。この部屋の畳の下に、もう一部屋あって、そこで誰かが天井を──つまり私の寝ている畳の裏を──やさしく、とんとんと叩いている夢だ。目が覚めてからも、しばらく音が続いていた気がする。気のせいとしておく」

「追記。翌月、一〇三の住人より苦情。『夜中、二〇三から床を叩くような音がする。空室のはずでは』と。私が泊まった夜のことではない。私はもう泊まらぬことにする」

読みながら、私は妙なことに気づいていた。

苦情の出る部屋が、二〇三の周りを回っているのだ。

二〇三に人が住んでいる間、苦情を言うのは二〇三の住人だけだ。壁の音、天井の音、数える声。ところが二〇三が空室になると、今度は両隣や真下の住人が「二〇三から音がする」と言い出す。そして新しい入居者が決まると、ぴたりと止む。

音は、二〇三に人がいないと、外に出る。

昭和の日誌の最後の年、管理人はそれをこう書いている。

「ようやく分かってきた。あの部屋に人を住まわせるのは、蓋をするためだ。中身は知らん。知らんが、住人という蓋があれば、音は蓋の内側で済む。蓋がなければ、建物じゅうを探して回る。だから空室にするなと言うのだ。先代も、その先代も、理由を言わなかったのではない。言えるほど分かっていなかったのだ。私もこれ以上は調べぬ。三の申し送りは正しい」

三 日誌・平成

平成に入ると、日誌は事務的になる。管理会社を挟むようになったからだ。それでも二〇三に関する記述だけは、手書きで続いていた。まるでそこだけは、会社に任せられないとでもいうように。

「平成七年。二〇三、真壁様退去。三年二ヶ月。歴代最長である。退去の挨拶で真壁様が言った言葉を、そのまま記しておく。『あの部屋、慣れると悪くないですよ。夜の音も、子守唄みたいなもんです。ただ最近、数える声が、うちの子の名前を呼ぶようになったんです。うちの子、まだ生まれてないんですけどね。妻の腹の中の子の名前を、なんで知ってるんですかね』。真壁様は笑っていた。私は笑えなかった」

「平成十二年。二〇三の畳替えの際、業者が畳の下の板に古い書き付けがあるのを見つけた。墨で書かれた文字で、判読できたのは『こゑをかぞへるへからず』の一行のみ。数えるべからず、とは。住人はいつも、聞こえてくる声が数を数えていると言う。逆ではないのか。数えているのは──」

そこで、その頁は終わっている。破られたのではない。書きかけで、やめたのだ。次の頁は何事もなかったように、雨樋の修繕費の話に戻っている。

平成の半ば、日誌の筆跡がまた変わる。叔父の字だ。見慣れた、右上がりの癖のある字。私が知っている、年賀状の宛名の字。

叔父は淡々と書いている。二〇三の家賃をさらに下げたこと。それでも入居者が決まりにくくなったこと。古いアパートを借りる人が減ったこと。

「平成二十九年。二〇三、七ヶ月空室。一〇三と二〇二から苦情が続く。夜、誰かが廊下で部屋の戸を、順に叩いて回るという。一〇一から順番に、こん、こん、と二回ずつ。自分の部屋の前で止まって、しばらくして、次へ行く。まるで空いている部屋を探しているようだと。急ぎ入居者を探す。敷金礼金なしとする」

「平成三十年。ようやく決まる。入居したのは訳ありの様子の中年男性。前歴は聞かない。あの部屋に住んでくれるなら、誰でもいい。こんなことを書く管理人は失格だろうか。だが歴代の帳面を読めば、皆同じことを考えてきたのが分かる。この帳面は、そのために引き継ぐのだ。罪悪感を、代々で割り勘にするために」

罪悪感を代々で割り勘にする。叔父らしい言い回しだと思った。思って、それから気づいた。

その訳ありの中年男性は、今も二〇三に住んでいる。私が引き継いだ入居者名簿にある、あの物静かな住人だ。家賃を一度も遅れたことのない、会えば黙って頭を下げる、あの人だ。

そして名簿の彼の欄の備考に、叔父の字で小さくこう書いてあるのを、私はもう読んでしまっている。

「よく耐えてくれている。眠れているか、いつも気にかけること。彼が限界になったら、次を探す前に、まず彼に礼を言うこと」

四 現在

先月、二〇三の彼が退去を申し出た。

七年住んでくれた。歴代最長を大きく更新した。退去理由を尋ねると、彼は少し考えてから、静かに言った。

「もう、覚えられてしまったので」

「……何にです?」

「最初の頃は、ただ数えてるだけだったんです。一、二、三って。壁の中で。気味は悪いけど、害はない。そのうち、私が寝る時間に合わせて数え始めるようになりました。子守唄のつもりなのかなと思ってました。でもこの半年、数え方が変わったんです」

彼はそこで、言葉を選ぶように黙った。

「今は、私の一日を数えてます。朝起きると『一』って言うんです。歯を磨くと『二』。家を出ると『三』。帰ってくると『続き』から。……先週、とうとう最後まで数え終わったみたいで。それからは夜になると、壁の中で、私の明日の分を先に数えてるんです。まだ起きてもいない明日の行動を、先回りして。だからもう、出ようと思います。数え終わられたものが、この先どうなるのか、知りたくないので」

私は止められなかった。礼を言い、敷金を全額返し、彼を送り出した。叔父の申し送りどおりに。

それから七週間、二〇三は空室のままだ。

先週から、一〇三の住人が言い始めた。夜中、天井から音がする、と。二〇二の学生も言う。壁の向こうで、誰かが戸を、こん、こん、と叩いて回っている、と。

今夜、私のスマホに、一〇一の老人から着信があった。老人は囁くような声で言った。

「管理人さん、廊下の音、聞こえとるかね。いま、一〇二の前じゃ。二回ずつ叩いて、返事を待って、次へ行きよる。なあ管理人さん、うちのアパート、いま、空いとる部屋は二〇三だけかね」

「そうです」

「そうかね。……なら、なんで音は、外の道から聞こえてくるんかね」

電話を切って、私は窓の外を見た。アパートは私の自宅から二筋先にある。街灯の下の道は、静かで、誰もいない。

誰もいないのに、うちの生け垣の門扉が、こん、こん、と二回鳴った。

五 記録の最後に

日誌の十一冊目、叔父が最後に書いた頁を、私は何度も読み返している。

「この帳面を読む後任へ。まず詫びる。すまない。それから、頼みがある。二〇三を空けるな。どうしても埋まらないときの、最後の手立てを書いておく。歴代の管理人が、皆いつかは使った手だ。帳面の一冊目から読み返してみるといい。初代の田村さんが、なぜアパートの隣に住んでいたか。二代目が、なぜ空室に泊まる『実験』などしたのか。私が、なぜ独り身のまま、あのアパートから歩いて二筋の家を買ったのか」

「蓋は、住人でなくてもいいのだ。管理人でも、なれる」

今、私は明星荘の二〇三号室で、この文章を書いている。

引っ越しは今日の昼に済ませた。荷物は少ない。畳の上に机をひとつ置いて、歴代の日誌を十一冊、机の脇に積んである。十二冊目は、私が書く。もう三頁目だ。

部屋は、静かだ。拍子抜けするほど。

アパートの他の部屋からの苦情は、私が越してきた日を境に、ぴたりと止んだ。蓋の理屈は正しかったわけだ。皆よく眠れていると言う。結構なことだと思う。

壁の中の声には、二日目の夜に気がついた。本当に、数を数えている。小さな、性別も年齢も分からない声で、一、二、三、と。百二十三まで数えて、少し黙って、また一に戻る。歴代の記録のとおりだ。慣れれば子守唄というのも、分かる気がする。

ただ、ひとつだけ、記録と違うことがある。だからこうして書き残しておく。十三冊目を書くことになる、いつかの誰かのために。

畳の下の書き付けは「こゑをかぞへるへからず」だった。声を、数えるべからず。私はあの警告の意味を、もう理解してしまった。

三日目の夜、私は眠れないまま、壁の声に合わせて、心の中で一緒に数を数えてしまったのだ。一、二、三、と。ただの退屈しのぎだった。声と私の数が、ぴたりと揃って百二十三まで行った。

そのとき、初めて、声が止まらなかった。

「ひゃくにじゅうし」

と、壁の中が言った。嬉しそうに。

それから声は、毎晩少しずつ先へ進む。昨夜は三百を超えた。数が増えるたび、声は少しずつ、はっきりしてくる。少しずつ、近くなってくる。壁の中から、壁の表へ。天井の裏から、天井の下へ。

数え終わったら何が起きるのか、私は知らない。二〇三の彼の言葉を借りるなら、知りたくない。だが逃げるつもりはない。蓋が逃げたら、音は外に出る。一〇一の老人も、二〇二の学生も、二筋先の家々も、私が数え始めてしまったことを知らないまま、今夜もよく眠っている。

だから、せめて記録する。管理とは、記録することだ。叔父もそう書いていた。

今夜の分を書いて、この頁を閉じる。声はいま、私のすぐ後ろ、部屋の真ん中あたりで、四百十二、と数えた。振り向かずに書いている。振り向かないことだけが、最近の私の管理業務だ。

十三冊目を書くあなたへ。申し送りはひとつだけ。──絶対に、一緒に数えるな。

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