十三階
一 移転
会社が今のビルに移転したのは、三年前だ。
築三十年のオフィスビルの十二階と十三階。家賃が相場よりずいぶん安く、総務部長が得意げだった。曰く、「前のテナントが夜逃げ同然に出たから、買い叩けた」と。
移転して最初に気づいた妙は、非常階段だった。
十二階と十三階の間の階段の、ちょうど中間に、踊り場がある。当たり前だ。どのフロア間にもある。ただ、十二と十三の間の踊り場だけ、他と違った。窓がないのだ。他の踊り場には全部、細い窓があって外光が入るのに、そこだけ壁。非常灯の緑の光だけが、いつも点いている。
それだけなら、建築の都合で済む。
おかしいのは、そこを通るときの「歩数」だった。私は健康のために階段を使う人間で、毎日上り下りする。どのフロア間も、階段は上下あわせて二十二段。数えるまでもなく体が覚える。ところが十二と十三の間だけ、日によって段数が違うのだ。二十二段の日と、二十六段の日がある。
二十六段の日は、決まって、あの窓のない踊り場が「広い」。
普段は二歩で横切れる踊り場が、四歩かかる。壁の非常灯の位置も、心なしか遠い。最初は疲れ目だと思った。だが総務の備品台帳を見る機会があって、ぞっとした。あの踊り場の非常灯、型番の記録がなかった。ビル全体の非常灯を三年前に一斉交換した記録があるのに、あそこの一灯だけ、台帳に存在しなかった。
二 残業
決定的だったのは、去年の決算期だ。
経理の橋本さんという女性が、深夜残業の帰り、非常階段で「変なもの」を見たと言い出した。終電間際、エレベーターの点検が重なって、階段で降りるしかなかった。十三階から降りて、あの踊り場に差しかかったとき──踊り場の隅に、スーツの男が立っていたのだという。
「壁のほうを向いて、じっと立ってるの。顔を壁につけるくらい近づけて。声かけられなかった。だって、その人、上下逆さまだったから」
逆さま、の意味を聞き返すと、橋本さんは苛立ったように言った。
「そのまんまよ。天井から生えてるみたいに、逆さまに立ってたの。スーツの裾もネクタイも、全部、重力を無視して体に沿ってた。だから最初、鏡か何かだと思ったのよ」
橋本さんは走って十二階の扉から中に逃げ込んだ。以来、彼女は何があっても階段を使わない。
笑い話にする者もいた。だが、それから立て続けだった。深夜残業した営業の若手が、階段で「自分の足音がひとつ多い」と青くなって帰ってきた。上りは普通なのに、下りだけ、二十六段あった、という証言も増えた。そして皆、口を揃えるのだ。あの踊り場を通るとき、壁の向こうから、こつ、こつ、と音がする、と。
壁の向こうは、外だ。地上五十メートルの、空中だ。
総務部長は「ビルの配管の音」で押し通した。ただし、その部長自身、いつからか階段を使わなくなっていた。そして誰が言い出したともなく、社内に不文律ができた。
「終電後は、階段を使わない。使うなら、踊り場では立ち止まらない。壁の音に、返事をしない」
返事をするな、という一条が、誰の発案でいつ加わったのか、調べても分からなかった。だが、みんな守った。守らなかった一人を、私たちは知ることになるからだ。
三 二十六段
今年の二月、システム部に常駐していた委託の沢田さんが、ビルから消えた。
深夜三時までサーバー作業をして、「階段で帰ります」とチャットを残したのが最後だ。一階の防犯カメラに、彼が出てくる映像はなかった。十三階の非常口のカメラには、階段室に入る後ろ姿が映っていた。階段室の中に、カメラはない。
警察も調べたが、結論は「行方不明」。ビルのどこにも、彼はいなかった。
ただ、ひとつだけ、警察に届けなかったものがある。翌朝、あの踊り場に落ちていた、沢田さんのスマホだ。見つけたのは私だった。画面は割れておらず、電源も入っていた。ボイスメモのアプリが、開きっぱなしになっていた。
録音は、四十一分あった。私は総務部長と二人で、会議室でそれを聞いた。
最初は足音だ。こつ、こつ、と階段を降りる音。それが、いつまでも続く。十三階から一階まで、どんなにゆっくりでも十分はかからない。足音は、二十分続いていた。途中から、沢田さんの息が乱れ始める。呟きが入る。「なんで」「まだ」「おかしいだろ」。
二十六分ごろ、彼は立ち止まって、数を数え始めた。
「一、二、三……二十五、二十六。……二十六。また二十六だ」
どの階まで降りても、次の踊り場が、あの窓のない踊り場なのだ、と彼は録音に向かって説明していた。まるで、あとで誰かに聞かせるために。実際、聞いているのは私たちだった。
三十五分ごろ、壁の音が始まった。こつ、こつ。沢田さんの呼吸が止まる。音は続く。こつ、こつ。こつ、こつ。リズムが、だんだんノックに似てくる。
三十九分、沢田さんの声が、ひどく疲れた、投げやりな調子で言った。
「……はい」
返事をしてしまった。
その直後の音を、どう文字にすればいいのか、今でも分からない。強いて言えば、分厚い本を一気にめくるような音だった。ばらばらばら、と。それから、すべての音が消え、残りの二分間は、完全な無音だった。
いや──最後の三秒だけ、音がある。イヤホンの音量を上げて、やっと聞き取れる小ささで、こつ、こつ、と二回。
それが、壁の「内側」から聞こえるのだ。録音マイクのすぐそば、つまり、こちら側の空間から。まるで、入れ替わりに何かが出てきて、床を二歩、歩いたような。
会社は今月、移転を決めた。次のビルは五階建てだ。総務部長は「たまたま良い物件があった」と言っている。あの階段室は、今は物置扱いで、扉に「故障・使用禁止」の紙が貼ってある。故障する部品など、階段にはないのに。
引っ越し作業はもう始まっている。私の仕事は備品の管理で、毎日、段ボールを数えている。
そして先週から、どうしても数の合わない備品が、ひとつだけある。社員証だ。発行台帳より、回収済みの社員証が、一枚多い。何度数えても、一枚多い。余った一枚には、顔写真も名前も印字されていない。ただのまっさらなカードなのに、裏面の入館記録のICログだけが、毎日更新されている。
記録によると「その社員」は、毎晩終電後に十三階から階段室に入り、朝の始業五分前に、階段室から十二階へ出てくる。──引っ越しの日、このカードをどうすればいいのか、誰も答えてくれない。持っていくのも、置いていくのも、正解ではない気がしている。