三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第五話 — 読了目安 約20分

避難小屋の帳面

一 停滞

単独行が好きだった。人と登る山より、ひとりの山のほうが、ずっと豊かだと思っていた。この話のあとは、考えが変わったが。

北アルプスの外れの、地味な縦走路でのことだ。二日目の午後、天気が崩れた。予報より半日早い。稜線で雨風に叩かれるのは御免なので、地図にある避難小屋に逃げ込んだ。

石積みにトタン屋根の、古い無人小屋だった。中は八畳ほどの土間と板の間。先客はいない。私は濡れた装備を吊るし、湯を沸かし、板の間の隅に寝床を作った。外は横殴りの雨になった。今夜はここで停滞と決めた。

暇つぶしに、備え付けの「宿泊ノート」をめくった。

山慣れた人なら知っているだろう。避難小屋にはよく大学ノートが置いてあって、利用者が日付と名前、ルート、ひとことを書いていく。遭難時の捜索の手がかりにもなる、実用の帳面だ。

ノートは三冊あった。二冊は書き終わって紐で縛られ、三冊目が使用中だった。パラパラめくると、いつもの調子だ。「ガスで展望なし、残念」「ブロッケン見た!」「ネズミがいる。食料注意」。

ただ、ときどき、妙な書き込みが挟まっていた。

「夜中、戸を叩く音がしても開けないこと。仲間の声でも開けないこと。(単独・浜松)」

「↑これ本当です。自分も聞いた。二時ごろ。(大阪・夫婦)」

「戸は叩かせておけば朝までに止む。相手にするな。二冊目の10月のページを読め。(常連)」

二冊目の十月のページ。紐を解いて、探した。

二 二冊目の十月

それは、十一年前の十月の書き込みだった。几帳面な細かい字で、三ページにわたって書いてあった。要約する。

書き手は五十代の単独行の男性。台風の接近で、この小屋に二泊停滞した。一泊目の深夜、戸を叩く音で目が覚めた。「すみません、開けてください、道に迷って」と若い男の声。こんな夜中に稜線を歩くはずがないと訝しみつつ、遭難者なら見殺しにできない。戸を開けようとして、ふと気づいた。

「戸の隙間から、ヘッドランプの光が見えないのだ。この暴風雨の闇夜に、無灯火で歩いてきた人間などいない」

男性は戸を開けず、「そこで朝を待ちなさい」と声をかけた。すると外の声は、ぴたりと止んだ。そして数秒後、まったく同じ台詞を、まったく同じ抑揚で繰り返した。「すみません、開けてください、道に迷って」。録音を再生するように。

男性は朝まで戸を押さえて過ごした。声は夜通し、同じ台詞を繰り返し、白み始めると同時に消えた。

ここまでなら、山の怪談によくある話だ。この書き込みが恐ろしいのは、ここからだった。

「二泊目の夜も、戸が鳴った。同じ男の声だった。ただし今夜は、台詞が増えていた。『すみません、開けてください、道に迷って──浜松から来た者です』。私は昨夜、戸越しに一言だけ返事をしてしまった。それで足りたらしい。私の相槌の声色から、あれは私の何かを読み取った。今夜のあれは、私の郷里を知っていた」

「後から来る人へ。あれは、こちらの声を材料にする。だから絶対に、返事をするな。無視が最善。それから、これが肝心だが、このノートに本名と住所を書くな。あれは字が読めないはずだが、読める夜が、もしかしたらあるかもしれない」

私は自分の書いた今日のページを見た。習慣で、フルネームと市の名前まで書いてしまっていた。外の雨音が、急に大きく聞こえた。

ページを破るべきか、迷った。捜索の手がかりを自分で消すのは、単独行では自殺行為だ。結局、名前の上から、持っていた油性ペンで太く塗りつぶした。読めなくなったのを何度も確かめた。

その夜。午前一時四十分。

戸が、鳴った。

三 一冊目

とん、とん。とん、とん。

「すみません、開けてください、道に迷って」

若い男の声だった。十一年前の書き込みと、同じ台詞。私は寝袋の中で石になった。返事はしない。決めていた。声は繰り返す。同じ抑揚で、何度も。機械のように。

三十分ほどして、声が、ふっと変わった。

「……こんばんは。今日の方は、お名前を、消しましたね」

心臓が、口から出るかと思った。

「いいんです。いいんです。前の方も、消しました。その前の方も。みなさん、消すようになりました。だから最近は、こちらも、やり方を変えました」

声は、戸から離れて、小屋の壁をゆっくり回り始めた。ざり、ざり、と壁に何かを擦りつけながら。

「名前は、あとで、ゆっくり聞きます。今夜は、これだけ。──あなた、明日、西へ下りますね。雨で、東の沢は渡れませんから。西の道の、三つ目の橋のところで、待っています。橋の上では、どうか、返事をしてくださいね。橋の上は、こちらの場所なので」

声は、それきり消えた。朝まで、もう戸は鳴らなかった。

夜明け、雨は上がっていた。私は迷った。予定では西へ下りる。東の沢は、あの声の言うとおり、増水で渡れないだろう。西の道には橋が──地図を見ると、確かに三つあった。

私は、三冊目のノートを最初から読み直した。何か、先人の知恵はないか。あった。最後の見開きの隅、鉛筆の薄い字で。

「橋のことを言われた人へ。稜線まで登り返して北へ。遠回りだが林道に出る。橋は渡るな。どうしても渡るなら、渡り終わるまで息を止めろ。息の音も『返事』に数えられる。(生還者)」

私は登り返した。コースタイム六時間の遠回りをして、膝を笑わせながら林道に降りた。三つの橋は、渡らなかった。

下山して、営林署に寄って、小屋のノートの件を、それとなく聞いてみた。若い職員は首をかしげたが、奥にいた年配の職員が出てきて、私を外へ連れ出し、煙草に火をつけてから言った。

「一冊目、読んだかね」

「いえ。二冊目と三冊目だけ」

「そうか。読まんでよかった。……一冊目の最初のページにな、あの小屋を建てた時の記録が書いてあるんだ。あそこは昔、橋の材料置き場でな。西の道の三つの橋は、戦前、あそこの石と木で架けた。三つ目の橋を架けとる最中に、若い人夫がひとり、沢に落ちて死んどる。名前が分からんかった。流れ者でな。だから墓も、名無しだ」

職員は、煙を長く吐いた。

「あれはな、悪さがしたいんじゃないんだ。名前が欲しいだけなんだよ。誰かの名前が。名前さえ手に入れば、成仏──いや、成り代われると思っとる。だからあんた、正しかったよ。名前は、塗りつぶして正解だ」

礼を言って帰りかけた私に、職員は最後にこう言った。

「ただな、余計なお世話かもしれんが──油性ペンで塗った字は、裏から透かすと、読めることがある。今夜は、家の戸締まりをしっかりな」

その晩から三日間、私のマンションのドアは、毎晩一時四十分に、とん、とん、と鳴った。私は返事をしなかった。四日目から、音は止んだ。

今も年に一度、思い出したように、ドアが二回だけ鳴る夜がある。私はテレビを消して、息を止めて、やり過ごす。──去年、その夜に限って宅配の再配達を頼んでいたことがあった。インターホンのモニターに映っていたのは、制服姿の、顔のところだけ暗くて見えない配達員で、荷物を持っていなかった。伝票だけを持っていた。サインを、くれと言うのだ。

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