三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第七話 — 読了目安 約20分

夜行の検札

一 最後列の席

金のない学生時代、帰省はいつも夜行バスだった。

その夜も、年末の帰省ラッシュを避けた、二十八日発の便に乗った。四列シートの格安便。私の席は、最後列の窓側だった。

発車前、隣に座った初老の男性が、私の切符をちらりと見て、妙なことを言った。

「お客さん、最後列は初めて?」

「ええ、まあ」

「そう。……夜中にね、検札が来ることがある。乗務員さんの制服を着てるけど、この会社、走行中の検札はやらないんだ。もし肩を叩かれても、寝たふりをしてなさい。切符を見せちゃいけない。とくに、最後列はね」

変な人だと思った。男性は消灯前に「私は次の休憩で降りるから」と言って、実際、最初のサービスエリアで降りて、戻ってこなかった。荷物ごと消えていた。運転手は何も言わなかった。まるで最初から、そんな乗客はいなかったように。

二 検札

午前二時過ぎ、私は肩を叩かれて目が覚めた。

通路に、制服の男が立っていた。帽子を目深にかぶり、白い手袋をはめて、小さな鋏のようなものを持っている。昔の車掌が切符に入れた、あの改札鋏だ。バスの検札に、鋏。寝ぼけた頭でも、おかしいと分かった。

「乗車券を、拝見します」

声は、密やかで丁寧だった。車内は消灯で真っ暗、他の乗客は皆眠っている。カーテンの隙間から、高速道路の照明が、等間隔に流れていた。

私は、発車前の男性の言葉を思い出した。寝たふりをしなさい。だが、もう目が合ってしまっている。どうする。迷った末、私は口から出まかせを言った。

「……切符、荷物と一緒に、下のトランクです」

検札の男は、しばらく黙っていた。帽子の影で、顔は見えない。やがて、男は小さく頷いた。

「では、降車の際に。──お降りの停留所は、終点ですね?」

「はい」

「かしこまりました。終点で、お待ちしております」

男は一礼して、通路を前方へ歩いていった。運転席の手前、非常口の脇の暗がりに溶けるように、見えなくなった。

私は朝まで眠れなかった。考えれば考えるほど、まずい返事をした気がした。切符を見せなかったのは正解かもしれない。だが私は、降りる場所を教えてしまった。終点で待っている、と言われてしまった。

夜が白み、バスは定刻に終点の駅前に着いた。私は、降りなかった。

とっさの判断だった。乗務員に「気分が悪いので、車庫まで乗せてもらえませんか」と頼み込んだ。若い乗務員は困惑していたが、青い顔の私を見て、規則違反を承知で乗せてくれた。バスは回送になり、二十分先の車庫に入った。

降り際、乗務員が言った。

「お客さん、夜中に、何か見ました?」

「……検札が来ました」

乗務員は、手を止めた。それから、声を落とした。

「切符、見せました?」

「見せてません。降車地だけ、聞かれて……終点って、答えちゃって」

「そうですか。……見せなかったなら、大丈夫です。たぶん。あれはね、切符を『拝見』すると、そこに書いてある行き先を、書き換えるんですよ。鋏で、パチンとやってね。書き換えられた人はね、ちゃんと目的地で降りるんです。降りるんですけど──家に、着かないんです。どこにも、着かない。うちの会社、それで年に何人か、行方不明のお客さんが出てるんです。表には出ませんけどね。バスを降りたところまでは、カメラに映ってますから。会社に責任はない、って理屈で」

三 終点

話はこれで終わりではない。むしろ、ここからが本題だ。

私はあの朝、終点で降りなかった。つまり、あれとの約束を、すっぽかした形になった。

以来、十五年。私は「終点」と名のつくものが、少しずつ苦手になっていった。理屈ではない。電車でも、バスでも、終点まで乗ると、降り場に誰かが立って待っている気がするのだ。だから必ず、一つ手前で降りる。癖になった。妻には「変な習慣」と笑われる。それで済んでいた。先月までは。

先月、出張の帰り、私は新幹線の中で居眠りをした。目が覚めると、車内アナウンスが流れていた。

「まもなく、終点です」

降り支度をしながら、ふと、違和感に気づいた。アナウンスが、駅名を言わなかった。「まもなく、終点、東京です」ではなく、ただ「終点です」と。そして窓の外が、真っ暗だった。東京駅の手前に、こんなに長い暗闇はない。

デッキに出ると、乗務員が立っていた。帽子を目深にかぶり、白い手袋。手に、改札鋏。

「お久しぶりです。乗車券を、拝見します」

十五年前と、同じ声だった。

「あの日は、トランクとおっしゃいましたね。今日は、お持ちのはずです。胸の、内ポケットに」

そのとおりだった。出張の帰り、切符は確かに内ポケットにある。私は動けなかった。男は、急かさなかった。ただ、こう続けた。

「十五年、お待ちしました。私どもは、検札できなかったお客様を、こうしてまた、お乗せするしかないのです。何度でも。ですから、恨みっこなしで参りましょう。──さあ、乗車券を」

私は、内ポケットに手を入れた。指先に、切符の角が触れた。そのとき、車内チャイムが鳴って、明るいアナウンスが響いた。「まもなく、終点、東京、東京です」。窓の外に、見慣れたホームの灯が流れ込んできた。

デッキには、誰もいなかった。

ホームに降りて、膝が震えた。私は内ポケットから切符を出した。無事だった。何も変わっていない──ように見えた。だが、家に帰って、鞄を整理していて、気づいた。

切符の端に、小さな鋏の跡が、ひとつ入っていた。

桜の花のかたちの、古風な改札鋏の跡。私は確かに、切符を渡さなかった。指で、触れただけだ。だが、あちらも、指一本ぶんだけ、届いたらしい。

それから、私の切符には、必ず鋏の跡がついている。

駅の自動改札から出てきた切符にも、飛行機の搭乗券にも、コンサートの電子チケットのスクリーンショットにさえ、あの桜形の欠けが、どこかに一つ、写り込む。妻は「印刷のかすれでしょう」と言う。そうかもしれない。そうであってほしい。

ただ、先週買った、来月の帰省の切符。あれだけは、様子が違った。鋏の跡が、二つに増えていたのだ。そして行き先の欄の印字が、目を離すたび、ほんの少しずつ、読めない駅名に近づいている。あと何回目を離したら書き換わるのか、私はもう、切符から目を離せない。

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