三分怪談

3分で読めるホラー掌編

中編 第一話 — 読了目安 約10分

夜勤

大学を辞めてから、駅裏のコンビニで夜勤をしている。

時給は昼より百五十円高い。客はまばらで、深夜二時を過ぎれば酔客も途絶える。品出しと床掃除を終えたら、あとはレジに立って朝を待つだけの、静かな仕事だ。

その店には、妙な客がひとりいた。

毎晩、午前二時五十分に自動ドアが開く。小柄な老婆だ。季節を問わず灰色の着物のようなものを着て、うつむき加減に入ってくる。買うものはいつも同じ。仏壇用の白いろうそくを一本と、食卓塩をひと箱。それだけを無言でレジに置き、小銭を受け皿に置いて、釣りも受け取らずに出ていく。

最初の夜、私は研修で教わったとおりに「ありがとうございました」と声をかけようとした。そのとき、隣でレジを打っていた先輩の吉井さんが、私の脇腹を強く肘で突いた。

「言うな」

老婆が出ていってから、吉井さんは何事もなかったようにレジ点検を始めた。理由を聞いても「そういう決まりだから」としか言わない。ただ、バックヤードの事務机の一番下の引き出しを顎で指して、こう言った。

「読んどけ。店長には内緒な」

引き出しの奥に、色褪せた紙のファイルがあった。表紙には手書きで「Aさん対応について」とだけ書かれている。中身は数枚のルーズリーフだった。筆跡はページごとに違う。歴代の夜勤が書き継いできたものらしかった。

「・毎晩2:50に来店。ろうそく1、塩1。」

「・目を合わせないこと。」

「・お礼を言わないこと。『ありがとうございました』は絶対に不可。」

「・釣り銭を渡そうとしないこと。レシートも渡さないこと。」

「・雨の日は、店の外まで送る素振りを見せないこと。」

そして最後の行に、少し濃い字でこうあった。

「・Aさんはお客様ではない。会計をしているのは、こちらの都合。」

意味が分からなかった。だが夜勤というのは不思議なもので、三日も続けると、深夜の店内の理屈に体が馴染んでくる。二時五十分が近づくと自然と手が止まり、目を伏せる。老婆が来て、買って、帰る。それだけのことが、日課として体に組み込まれていった。

ひと月ほど経った頃、新しいバイトが入ってきた。田代という大学一年の男の子で、よく気のつく、声の大きい子だった。

私は吉井さんにされたように、ファイルを読ませた。田代くんは笑った。

「なんすかこれ。いたずらでしょ」

「いいから、守って」

「ばあちゃん相手に塩対応しろってことっすよね。逆じゃないですか、普通」

その言い方が引っかかったが、当日の夜、田代くんはちゃんと黙っていた。二日目も、三日目も。老婆が来る時間だけ、店の空気が薄くなるのを、彼も感じ取ったのだと思う。若い子ほど、ああいうものには敏感だ。

破られたのは、四日目だった。

その夜は雨だった。老婆はいつもどおり二時五十分に来て、ろうそくと塩をレジに置いた。会計をしたのは田代くんだった。小銭が受け皿に置かれ、老婆が背を向けた、そのときだ。

「傘、お持ちですか」

店内が、しんとした。

冷蔵庫のコンプレッサーの音が消えた。雨の音も消えた。老婆は出入口の手前で立ち止まっていた。振り向きはしなかった。ただ、立ち止まって、じっとしていた。十秒か、二十秒か。それから何もなかったように、自動ドアを抜けて雨の中へ消えた。

ドアが閉まると、音が戻った。

「……やっちゃいました?」

田代くんは笑おうとして、失敗していた。私はファイルの文言を思い出していた。雨の日は、送る素振りを見せないこと。傘の話は、どっちに入るのだろう。

その夜は何も起きなかった。次の夜も。私は少し安心していた。

一週間後、田代くんが夜勤に来なくなった。無断欠勤だった。電話も繋がらない。店長は「最近の子はすぐ飛ぶから」とぼやいて、シフト表から彼の名前を消した。

それだけなら、よくある話だ。

ただ、その週から、老婆の買い物が変わった。

ろうそくが、二本になったのだ。

塩はひと箱のまま。ろうそくだけ、二本。レジを打つ手が震えた。目を伏せたまま会計を済ませ、老婆が出ていってから、私はバックヤードに走り、ファイルを開いた。書き継がれたルーズリーフの、ずっと前のページに、見落としていた一文があった。

「・ろうそくの本数が増えた月は、新しく書く者がいなくなった月。」

意味を、考えたくなかった。

吉井さんに相談すると、彼は長いこと黙ってから、ぽつりと言った。

「俺が入った年は、三本だった」

「……今は一本ですよね。減るんですか」

「減る。時間はかかるけどな」

どうやって、とは聞けなかった。吉井さんの目が、聞くなと言っていた。

それから二年、私はまだこの店にいる。吉井さんは辞めた。円満退職だ。送別の夜、彼は私にファイルを託して、最後にひとつだけ教えてくれた。

「あの人はな、買いに来てるんじゃないんだ。届けてるんだよ。俺たちが受け取ってる。ろうそくと塩を置いてってくれてるんだ、この店のために。だから釣りも礼もいらない。こっちが客なんだから」

「じゃあ、会計は」

「けじめってやつだろ。向こうなりの」

今も毎晩、二時五十分にドアが開く。ろうそくは、先月からまた一本に戻った。田代くんがどこでどうしているのか、私は知らない。知らないままでいるのが、たぶん礼儀なのだと思う。

ファイルには、私の字で一行書き足してある。

「・お礼を言いたくなったら、次の朝、店の前を掃除すること。それは届くらしい。」

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