返事
大学の山岳サークルにいた頃の話だ。
北関東のある山に、一年の秋、四人で登った。私、同期の坂口、先輩がふたり。日帰りの、難しくもないルートだった。
登り始める前、麓の駐車場で、地元の作業着の爺さんに声をかけられた。今日はどこまで、と聞くから山頂までだと答えると、爺さんは頷いて、去り際にこう言った。
「上でな、名前を呼ばれても、山では返事すんな。呼び返すのもいかん」
ありがちな脅かしだと、私たちは笑った。爺さんは笑わなかった。
「呼ばれるのはな、たいてい、いちばん疲れとる奴だ」
登山は順調だった。頂上で昼を食い、下山にかかったのが十三時半。問題は下りで起きた。
坂口が膝を痛め、ペースが落ちた。先輩たちが先行し、私が坂口に付き添う形で、二人組がふた組に分かれた。ガスが出てきて、五十メートル先が白く煙った。
その白い霧の奥から、声がした。
「さかぐちー。おーい、さかぐちー」
先輩の声だった。心配して呼んでいるのだと思った。隣の坂口が息を吸い込んで、返事をしようとした。そのとき、坂口のザックの雨蓋のポケットで、無線が鳴った。先輩の声がした。
「こちら先行組。今、鎖場を通過。そっちのペースでゆっくり来い。どうぞ」
無線の声と、霧の奥の声は、同時に聞こえていた。
霧の奥の「先輩の声」は、まだ呼んでいた。さかぐちー、さかぐちー、と。抑揚まで同じ声で。私と坂口は顔を見合わせ、無言で頷き合って、歩く速度を上げた。膝の痛みなど言っていられなかったのだと思う。声は、しばらく並走するように霧の中をついてきた。呼ぶ名前が、途中から私の名前に変わった。それも無視した。
声が諦めたのは、五合目の祠の手前だった。最後に一度だけ、すぐ耳元で、今までのどの声でもない、平べったい声がこう言った。
「こんかいも、へんじなしか」
麓に降りて、先輩たちと合流して、私たちはこの話をした。先輩たちは青い顔で聞いていたが、やがて年上のほうの先輩が、無理に笑って言った。
「実はな、俺たちも聞いたんだ。後ろから、お前らの声で『まってー』って。振り返るなって言われてたから、無視したけど」
四人とも、無事だった。この話は、ここで終わるはずだった。
三年後、坂口から夜中に電話が来た。社会人になった坂口は、会社の同僚と、また別の山に登ったのだという。
「なあ、あのときの爺さんの話、覚えてるか」
「覚えてるよ。返事するなってやつだろ」
「今日な、呼ばれたんだ。ガスってきたあたりで、後ろから、部長の声で。それでな……疲れてたんだ、ほんとに疲れてて、頭が回ってなくて」
「……返事、したのか」
電話の向こうで、坂口は長いこと黙った。それから、笑った。今まで聞いたことのない、平べったい笑い方だった。
「したよ。『はい』って。そしたらな、声、やんだんだ。なんも起きなかった。迷信だったんだよ、結局。な? なんも起きてないんだ。今もこうして、ちゃんと帰ってきてる」
それから坂口は、妙なことを言った。
「ただな、ひとつだけ教えてくれ。俺いま、自分ちの前にいるんだけどな。……俺んち、こんなに山の近くだったか?」
坂口の家は、埼玉の平野のまん中にある。私がそう言うと、坂口は「だよなあ」と、また平べったく笑って、電話を切った。
翌日から、坂口は会社に来なくなった。家にもいなかった。同僚との登山から、そもそも帰宅した記録がなかった。駐車場の車も、山に残されたままだった。
では、あの電話はどこから、誰が。
着信履歴には、ちゃんと坂口の番号が残っていた。警察にも見せた。通信会社の記録には、その時刻の発信は「ない」そうだ。
坂口は今も見つかっていない。
ただ、先月、私のスマホに非通知の着信があった。出なかった。留守電に、メッセージが残っていた。雑音まじりの、風の音のような背景の中で、坂口の声がこう言った。
「おーい。……おーい。こっちはいいぞー。おまえも、はやくー」
私はもう、山に登らない。そして、どんなに疲れている日でも、呼ばれてすぐに返事をする癖を、必死で直しているところだ。