三分怪談

3分で読めるホラー掌編

中編 第十一話 — 読了目安 約10分

やくそく

五歳から七歳まで、私には「しんちゃん」という友達がいた。

団地の裏の雑木林でいつも遊んだ。親には見えていなかったらしい。母子手帳の隅に「空想の友達? 様子見」と母の字でメモが残っているのを、大人になってから見つけた。いわゆるイマジナリーフレンドというやつだ。よくある話で、小学校に上がって新しい友達ができると、しんちゃんの記憶は自然に薄れていった。

ただ、最後の日のことだけは、妙にはっきり覚えている。

雑木林の入り口で、しんちゃんは言った。いつものにこにこ顔で。

「もう あそべなく なるんだね」

「そんなことないよ」

「いいんだ。みんな そうだから。……ねえ、さいごに やくそくしよう。おとなに なって、いちばん しあわせな日が きたら、また いっしょに あそぼう。ぼく、それまで まってる」

子どもの私は、深く考えず、指切りをした。しんちゃんの小指は、冬の鉄棒みたいに冷たかった。それきり、しんちゃんは現れなくなった。

三十二歳の秋、私は結婚式を挙げた。

チャペルも披露宴もつつがなく終わり、二次会も済んで、ホテルの部屋に戻ったのが夜の十一時。妻が先にシャワーを浴びている間、私は窓際の椅子で、ぼんやり夜景を見ていた。人生でいちばん幸せな日、というやつを、頭の中で嚙みしめながら。

ドアが、こん、こん、とノックされた。

ルームサービスは頼んでいない。覗き穴から廊下を見ると、誰もいなかった。気のせいかと椅子に戻りかけたとき、今度はノックが、部屋の中から聞こえた。

クローゼットの、白い折れ戸の内側から。こん、こん。

そして、三十年前と同じ、あの声がした。少しも大きくなっていない、五歳の子どもの声が。

「やくそく、おぼえてる?」

私は動けなかった。折れ戸の隙間から、白い小さな指が、するりと出てきた。ドアの縁を、内側からつかんでいる。

「きょうだよね。いちばん、しあわせな日。ぼく、ずっと かぞえてまってた。きょうが いちばんだって、ちゃんと わかったよ。だから きた」

「……しんちゃん、か?」

「あそぼう」

折れ戸が、ゆっくり開き始めた。中は暗かった。ホテルのクローゼットの奥行きではない、ずっと深い暗がりが見えた。その奥に、雑木林の匂いがした。湿った土と、夏草の匂い。懐かしくて、体の力が抜けそうになる匂いだった。

「こっちで あそぼう。むかしみたいに。ずっと あそぼう」

足が、一歩、勝手に前に出た。

そのとき、バスルームのドアが開いて、妻が「ねえ、ドライヤーどこ?」と顔を出した。

クローゼットは、閉まっていた。土の匂いも消えていた。私は「フロントに聞いてみる」と、掠れた声で答えるのがやっとだった。

その夜は何も起きなかった。翌朝、チェックアウトの前に、私はクローゼットを開けてみた。ハンガーと消臭剤があるだけの、ごく普通のクローゼットだった。ただ、床のカーペットに、小さな足跡がふたつ、外向きに残っていた。裸足の、子どもの足跡。土で汚れた。

外向きに、だ。つまり、出てきた跡だけがあって、帰った跡がなかった。

あれから二年になる。何も起きていない。ただ、私は最近、気づいてしまったことがある。

しんちゃんは「いちばん しあわせな日」と言った。結婚式の夜、あの子は確かに来た。でも、連れていかれなかった。妻が呼んでくれたから──ではない気がする。あの子は、几帳面な子だった。かくれんぼの数だって、絶対にずるをしなかった。

つまり、あの日は「いちばん」ではなかったのだ。

来月、子どもが生まれる。予定日が近づくたび、私は幸せで、そして、静かに怖い。産院の待合室で、はじめて我が子を抱く瞬間を想像する。人生でいちばん幸せな日になるだろう、その日を。

ゆうべ、生まれてくる子のためのベビークローゼットを組み立てた。扉を付け終わったとき、中から、こん、こん、と二回、音がした。──あの子は今も、几帳面に数えて、待っている。

中編一覧に戻る