三分怪談

3分で読めるホラー掌編

中編 第十二話 — 読了目安 約10分

井戸の石

実家の庭の隅に、使わなくなった井戸がある。

コンクリの蓋がしてあり、蓋の上に、漬物石ほどの丸い石がひとつ載っている。石には、色褪せた注連縄が巻いてあった。

祖父の代からの決まりが、ふたつ。石を動かすな。それから、井戸の近くで、家の中の話をするな。

ひとつ目は分かる。ふたつ目が、子どもの頃から謎だった。家の中の話とはなんだ、と祖父に聞いたことがある。祖父は言った。

「誰が生まれたとか、誰が病気だとか、うちの中のことだ。井戸端で喋るな。──聞いとるから」

実家は古い家で、直すところだらけだった。私が家を継いだ年、思い切って庭ごとリフォームすることにした。業者との打ち合わせで、私は井戸の蓋と石を指して、あれは絶対に動かさないでくれ、と念を押した。営業も現場監督も、承知しましたと言った。

工事の三日目、現場から電話が来た。

「すみません、うちの若いのが、石、動かしちゃいまして」

重機を入れる邪魔だったので、ほんの二時間ほど、脇にどけたのだという。今は元に戻してあります、向きも合わせました、申し訳ありません、と。私は嫌な汗をかきながら、まあ二時間なら、と自分に言い聞かせた。

その晩から、家の電話が鳴るようになった。

夜の九時ごろ、決まって一回。出ると、誰も喋らない。ただ、ざあざあと、水の流れるような音だけがする。非通知ではない。ナンバーディスプレイには「公衆電話」と出る。今どき、公衆電話。

五日目の晩、酔った勢いで、私は受話器に怒鳴った。いたずらなら切るぞ、と。すると水音の奥から、初めて声がした。年寄りとも子どもともつかない、湿った声だった。

「――みっちゃんは、げんきか」

受話器を落としそうになった。みっちゃんは、私の母の呼び名だ。とうに亡くなっている。祖父が生きていた頃、庭で母をそう呼んでいた。

「みっちゃんは、げんきか。しょうたは、おおきくなったか。……ながいこと、こえが、とおくてなあ。ふたのうえの、いしが、おもくてなあ。ひさしぶりに、よく、きこえたから」

翔太は、私の名前だ。

石をどけた二時間。あの二時間ぶん、「よく聞こえた」らしかった。そして聞こえた情報が、古かった。母が元気で、私が子どもだった頃。つまりあれは、石が今より軽かった時代──祖父がまだ、注連縄を巻き足す前の頃までの話を、最後に「聞いた」まま止まっているのだ。

私は受話器を持ったまま、祖父の教えを思い出していた。井戸の近くで、家の中の話をするな。聞いとるから。

逆に言えば。聞かせなければ、あれの知識は古いままなのだ。

「……母は元気です。私も元気です」

迷った末、私はそう答えた。母が死んだと知られてはいけない。そんな気がした。理屈ではない。死んだと知ったら、あれは母を「そちら側」で探し始める。なぜかそう確信した。

「そうか、そうか。げんきか。それは、なにより」

声は満足そうに、ぶつりと切れた。

電話は、それきり来なくなった。私は翌日、神社に頼んで井戸のお祓いをし直してもらい、新しい注連縄を石に巻いた。神主は石を見て、こう言った。

「この石、だいぶ痩せましたね。先代はもっと大きい石を載せていたはずですよ。石はね、務めを果たすと、少しずつ軽く、小さくなるんです。そろそろ、次の石を探されたほうがいい」

次の石の条件を聞くと、神主は妙なことを言った。川の石でも山の石でもだめで、「家の者が、いちばん大事にしているもの」でないと重しにならないのだと。

「先代の石が何だったか、ご存じですか。あれはね、おじいさまが若い頃、戦地から持ち帰った石です。亡くなった戦友と、ふたりで割って持ち合った石の片割れ。おじいさまの一等大事なものだった。だから何十年も保った」

私は今、家の中を見回して考えている。私がいちばん大事にしているものは、何か。

アルバムか。母の形見の指輪か。娘が初めて描いてくれた似顔絵か。どれかを、これから何十年、雨ざらしの蓋の上に載せて、腐らせ、痩せさせていかなければならない。

ゆうべ、久しぶりに家の電話が一度だけ鳴って、切れた。ナンバーディスプレイには「公衆電話」。

催促されている気がする。早く載せろ、と。──大事なものであればあるほど、長く保つ。それはつまり、あれの耳を塞ぐ栓として、私の「いちばん」が吸われ続けるということだ。娘の似顔絵だけは、やめておこうと思う。あれに、娘の描いた家族の顔を、何十年も見せ続けることになるから。

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