三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第十三話 — 読了目安 約20分

山経

古書店で働いている。買い取りの査定が僕の仕事だ。

ある日、蔵じまいだという旧家から、大量の古文書が持ち込まれた。その中に、一巻だけ、妙な巻物があった。経文のようだが、どの宗派のものとも違う。表題に「山経(やまぎょう)」とだけあった。

妙だったのは、巻物の末尾に、朱で書かれた但し書きだ。達筆で、こうあった。

「此経、声に出して読むべからず。読み始めしは、必ず終いまで読み切るべし。中途にて止むれば、迎えに来る」

職業柄、この手の「呪いの品」めいた但し書きには慣れていた。売り文句か、後世のいたずらだろう。僕は同僚に見せ、二人で笑った。そして軽い気持ちで、冒頭の数行を声に出して読んだ。

意味の通らない、漢字の羅列だった。「奥ノ院ヨリ 三里 下ル者 ソノ名ヲ 呼バフ」。三行ほど読んで、僕は馬鹿らしくなって止めた。同僚があとで気味悪そうに言った。

「今の、なんか……読んでる間、店の奥から、足音、しなかった?」

気のせいだ、と僕は言った。本当にそう思っていた。その夜までは。

その夜、アパートで寝ていると、遠くから音が聞こえた。

ざっ、……ざっ、……と、下草を踏むような音。山道を誰かが下りてくるような。僕の部屋は都心のマンションの八階だ。山などない。それでも音は、確かに「山を下りてくる」音だった。

音は、その夜は遠かった。翌日、古書店で調べ物をした。「山経」の来歴を、持ち込んだ旧家に問い合わせた。老いた当主は電話口で絶句し、それから押し殺した声で言った。

「……あんた、まさか、読んだんか。声に出して」

「少しだけ。三行ほどで、止めました」

長い沈黙があった。

「止めたら、あかん。あれは、山の上の『奥ノ院』に封じられとるモノを、経で縛る巻物や。読み始めると、封じが緩む。読み切れば、また縛り直せる。けど、中途で止めると——縛りかけのまま、緩んだところから、あれが、下りてくる。読んだ者を、目印にして」

「下りてくる、って、どこへ」

「あんたのとこや。奥ノ院から、三里ずつ。あれは、一日に三里、下りてくる。あんたが読んだ行に、『三里下ル者』とあったやろ。あれは、そういう意味や」

僕は地図を見た。この土地に「奥ノ院」と呼ばれる霊山があるのを初めて知った。僕のアパートまで、直線でおよそ三十里。

「十日や」と当主は言った。「十日で、あんたのとこに着く。それまでに、なんとかせなあかん」

それからの十日を、どう書けばいいだろう。

毎晩、足音は近づいた。一日目は、遠い山の中。三日目には、川の向こう。五日目には、隣町。音だけではない。近づくにつれ、「気配」が濃くなった。夜、窓の外の闇が、やけに深くなる。テレビが砂嵐に変わる。仏壇もないのに、線香の匂いがする。

七日目の夜、初めて「声」が聞こえた。足音とともに、低く、経を読むような、しかし言葉にならない唸りが。僕が読みかけた「山経」の続きを、あれ自身が下りながら読んでいるようだった。まるで、僕が止めた続きを催促するように。

僕は当主に泣きついた。助ける方法はないのか、と。当主は重い声で、唯一の手立てを教えてくれた。

「読み切るしかない。あんたが止めた続きを、最後まで。そうすれば、あれはまた奥ノ院に縛り直される。……ただし、条件がある。読み切るのは、あれが『あんたの家の戸口』に着く、その夜でないとあかん。早すぎても、遅すぎてもいかん。戸を叩かれてから、読み始めて、あれが戸を破る前に、読み切る。それができれば、助かる」

「間に合わなかったら」

「あんたが、次の『奥ノ院の封じ』になる。あれの代わりに、山の上に、あんたが封じられる。そして次に、誰かがこの巻物を読むまで、ずっとそこにおる。……今、あんたを追っとるのも、元は、そうやって封じられた誰かや」

十日目の夜が来た。

僕は「山経」の巻物を店から持ち出していた。部屋の灯りを全部つけ、巻物を膝に広げ、読みかけの続きに指を置いて待った。喉はからからだった。水を何杯も飲んだ。

足音は、もう、すぐそこだった。マンションの下から、階段を、一段ずつ。エレベーターは使わない。ざっ、ざっ、と、下草を踏む音のまま、コンクリートの階段を上ってくる。八階まで、長い時間をかけて。

そして、僕の部屋の戸口で止まった。

とん、とん、と戸が鳴った。僕は巻物に目を落とし、読み始めた。「三里下ル者 ソノ名ヲ 呼バフ 呼バレテ 応ウル者 山ニ 昇ル——」。声は震えた。戸は叩かれ続けた。だんだん強く。僕の読む速さと、戸を破ろうとする力が競うようだった。

巻物は長かった。読んでも読んでも終わらない。戸の蝶番が、みしり、と鳴った。木が裂ける音がした。僕は最後の数行に差しかかった。声が掠れた。あと少し。あと三行。

戸が、破れた。

冷たい、土と杉の匂いの風が部屋に吹き込んだ。僕は顔を上げなかった。巻物だけを見て、最後の行を読み切った。「——山ニ 還レ。山ニ 還レ。ここニ 汝ノ 座ハ 無シ」。

読み終えた瞬間、風が止んだ。匂いが消えた。僕は恐る恐る顔を上げた。破れたはずの戸は元通りだった。部屋には誰もいなかった。助かった、と僕は床に崩れ落ちた。

翌日、僕は当主に助かったことを報告した。当主は、しかし喜ばなかった。電話の向こうで長いこと黙り、それから絞り出すように言った。

「……読み切ったか。ほな、縛り直せたな。それは、ええ。ええんやが——あんた、一つ、聞いてええか。読み切ったあと、巻物は、どうなった」

僕は膝の上の巻物を見た。そして気づいた。巻物の末尾。あの朱の但し書きの、その後ろに。昨日まで何も無かったはずの余白に。新しい一行が朱で書き足されていた。僕の筆跡で。読んだ覚えのない、書いた覚えのない一行が。

「次二 読ム者 アラバ 我 三里 下ラン」

当主の声が、耳の奥で響いた。

「読み切った者はな、縛り直した『あれ』と入れ替わるんや。あんたはもう奥ノ院に封じられとる。今、東京の部屋におるあんたは……ここ何日か、あんたを追って下りてきた、『前に封じられとった誰か』や。入れ替わって、この世に出た。あんたの顔と暮らしを、そっくり手に入れてな」

僕は鏡を見た。僕の顔だった。僕の部屋だった。僕の指が巻物を巻き直していた。何も変わっていない。何も。

ただ、この文章を書いている今も、遠くで足音がする。ざっ、ざっ、と山を下りてくる音が。次に、誰かがこの「山経」を——たとえば、あなたが今読んでいる、この話を——声に出して読み始めたら。その人のところへ、僕が三里ずつ下りていく番なのだ。だから、お願いだ。ここから先は、どうか声に出さないで。……もう、読み始めてしまっただろうか。