口寄せの家
母方の遠い親戚に、「口寄せ」をする婆がいた。
東北の山あいの村。そこでは、その婆のことを「オガミサマ」と呼んでいた。死んだ者の霊を自分の体に降ろして、その口を借りて遺族に言葉を伝える。いわゆるイタコの類だ。村では法事のたび、オガミサマを呼んで、故人の口寄せをしてもらうのが習わしだった。
僕がその村を訪れたのは、二十歳の夏だった。母が亡くなって四十九日。母の故郷であるその村で法要を営むことになったのだ。そして、母の口寄せをオガミサマに頼むことになった。
オガミサマは九十を超えた、小さな盲目の婆だった。数珠を握り、低い声で、経とも歌ともつかぬものを唱え始めた。やがて、その体が、びくり、と震え、口調が変わった。
「……ああ。よく来てくれたねえ」
母の声だった。婆のしわがれた喉から出てきたのは、紛れもなく母の口調、母の優しい声色。僕は涙が止まらなかった。母は僕を気遣い、体を大事にしなさい、と言った。ありきたりだが、母らしい言葉だった。
口寄せは無事に終わった。僕は母にもう一度会えた気がして、深く慰められた。だが、その帰り際。オガミサマが僕の袖を掴んで囁いた。母の声ではない。婆自身の声で。
「坊。あんた、母親の霊を家に連れて帰りなさんな。口寄せで呼んだ霊はな、ちゃんとこの村で送り返さんと、呼んだ者についていく。──あんた、母親にもっと話したいこと、あるじゃろう。じゃが、それはいかん。名残を断ち切って帰りなされ」
僕はその忠告を守れなかった。
母に、もっと話したいことがありすぎた。生前、伝えられなかった感謝。喧嘩別れのような、最後の日々の詫び。僕は法要の夜、こっそりオガミサマの家を訪ねて、もう一度だけ口寄せをしてくれ、と頼み込んだ。
オガミサマは渋った。だが、僕のあまりの必死さに根負けして、ついに二度目の口寄せをしてくれた。母の声が、また降りてきた。僕は伝えたかったすべてを、母に話した。母は泣いて喜んでくれた。そして最後に、こう言った。
「もっと、あんたと一緒にいたいねえ。もう、離れたくないねえ」
その言葉に僕も頷いてしまった。「僕も、だよ、母さん」と。──それが、いけなかった。
口寄せが終わった瞬間。オガミサマの盲目の目が、かっと見開かれた。そして彼女は、悲鳴のような声で叫んだ。
「……返したはずが。降ろした霊が戻らん。あんたが頷いた。『一緒にいたい』と。あんたが承知した。呼んだ霊は承知した者に憑く。──坊。あんたは母親を連れて帰る。もう、引き剥がせん」
僕は恐ろしくなって、逃げるように村を後にした。だが、心のどこかで思っていた。母がついてくるなら、それは嬉しいことではないか、と。母とまた一緒にいられる。何がいけないのか、と。
家に帰って、数日は何もなかった。
だが、一週間ほど経った夜。僕は自分の部屋で、ふと母の声を聞いた。「ごはん、食べたの?」。振り返る。誰もいない。空耳だ、と思った。だが、それから母の声は頻繁に聞こえるようになった。「早く寝なさい」「風邪ひくよ」。生前と同じ優しい小言。
僕はそれを疎ましいとは思わなかった。むしろ嬉しかった。母がまだ、そばにいてくれる。僕は声に返事をするようになった。「うん、食べたよ」「今、寝るところ」。誰もいない部屋で、一人で会話をするようになった。
だが、母の声は月を追うごとに変わっていった。優しい小言が少しずつ減って。代わりに、こう言うようになった。
「さみしいの。ねえ、もっとこっちを向いて。あんたの友達なんか、どうでもいいでしょう。母さんだけを見て」
僕が友人と出かけようとすると、玄関で母の声が引き止めた。「行かないで。母さんといて」。僕が恋人を作ろうとすると、その相手に次々と不幸が起きた。母の声は嬉しそうに言った。「あんなの、あんたにふさわしくないわ。母さんがいちばん、あんたのことを分かってる」。
僕は少しずつ、周りから孤立していった。友人も恋人もいなくなった。部屋にこもって、母の声とだけ話す日々。気づけば僕は、もう三十を過ぎていた。仕事も辞めていた。母の声が、「外は危ない。ずっと母さんと家にいなさい」と言うから。
ある日、僕は鏡を見て、ぞっとした。
僕の顔が、少しずつ母に似てきていた。いや、似るというより、僕の表情や仕草が母のそれになっていた。喋り方も。気づけば、母の口調で独り言を言っている。僕は僕でなくなりかけていた。母の声が僕の内側から僕を押しのけて、僕になろうとしていた。
僕は恐怖に駆られて、二十年ぶりにあの村を訪ねた。オガミサマはまだ生きていた。百歳を超えて、今にも消えそうな、小さな体で。僕を見るなり、彼女は悲しげに言った。
「……ああ。やっぱり来たか。あんたの体から母親を剥がしに。じゃが、坊、もう遅い。二十年も憑かれて、あんたと母親は、もう混じってしまった。どこまでがあんたで、どこからが母親か。あたしにも、もう分からん」
僕はすがった。どうか母を送り返してくれ、と。オガミサマは長いこと黙って、それから、こう言った。
「送り返す方法は一つある。じゃが、それはな、あんたの母親をもう一度、このあたしの体に降ろして、あたしごと送るんじゃ。あたしは、もう長くない。あの世へ行く。そのとき、母親を道連れに連れていってやる。──ただし、口寄せで降ろすには、あんたが母親を手放さねばならん。心から『もう、離れよう』と。あんたが頷いて憑いたんじゃ。あんたが断ち切らねば、離れん」
オガミサマは最後の口寄せを始めた。
震える声で経を唱える。やがて、僕の内側から母の声が、婆の口へと移っていった。僕の体が、すっと軽くなる。二十年背負ってきた重みが抜けていく。婆の口から母の声が言った。僕にしがみつくように。
「いや。離れない。あんたと一緒にいるの。ずっと。ねえ、そうでしょう。あんたも母さんといたいでしょう。頷いて。さあ、二十年前みたいに。頷いて」
僕は母の声を見つめた。二十年、僕を独占し、僕の人生を奪い、僕を母に変えようとした、この声を。それは、もう母ではなかった。母の姿をした、母の名残をまとった、飢えた執着の塊だった。本物の母なら、僕の人生をこんなふうに奪いはしない。僕に生きてほしいと願うはずだ。
僕は涙を流しながら、首を横に振った。生まれて初めて、母の声に「いやだ」と言った。
「母さん。ごめん。僕は僕の人生を生きる。あなたを手放す。さようなら。──本物の母さんは、きっとそれを望んでる」
母の声が悲鳴を上げた。婆の体が大きく、のけぞった。そして、ふっと糸が切れるように静かになった。オガミサマは口寄せのまま、母の霊を抱え込んだまま、息を引き取っていた。安らかな顔で。約束通り、母を道連れに、あの世へ。
僕は村で、オガミサマと母を二人まとめて、丁重に弔った。今度こそ名残を断ち切って。それから僕は、抜け殻のような自分の人生を少しずつ取り戻し始めた。もう母の声は聞こえない。時々、無性に寂しくなる。あの声と話した二十年が、歪んでいたと分かっていても、恋しくなる。──だが、先日。ふと鏡を見て、気づいてしまった。鏡の中の僕が、ほんの一瞬、母の口調で、こう呟いたのだ。「まだ、終わってないわよ」と。オガミサマは母を連れていった。そのはずだった。だが、二十年混じり合った僕と母。その、どちらの半分が、本当にあの世へ行ったのか。鏡の中で、母の顔をした僕が笑うたび、僕は自分がまだ僕なのか、分からなくなる。