三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第十九話 — 読了目安 約20分

神隠しの祠

私の弟は七歳のとき、一度、神隠しに遭った。

私たちの育った村は古い山村だった。村の奥に深い鎮守の森があり、その中に小さな祠が祀られていた。「隠し様」と呼ばれる祠だった。子どもがその森で遊んでいると、時々「隠し様」に連れていかれる——そういう言い伝えがあった。神隠しだ。

弟はその森で遊んでいて消えた。三日間、村じゅうが総出で探した。だが見つからない。両親は半狂乱になった。ところが四日目の朝、弟はひょっこりと森から出てきた。何事もなかったように、傷一つなく。

弟はどこにいたのか、何をしていたのか、まったく覚えていなかった。ただ「暗いところで優しい人たちと遊んでいた」と、それだけを繰り返した。両親は無事に帰ってきたことをただ喜んだ。神隠しから戻れたのは幸運だと、村の古老も言った。

だが私は姉として、弟のあることに気づいていた。帰ってきた弟はどこか、以前と違っていた。うまく言えないが、弟であって弟でないような、そんな違和感。

その違和感の正体を、私はしばらくして知ることになる。

ある日、祖母が仏壇の前で数珠を繰りながら、奇妙なことを呟いていた。

「……一人、二人、三人。おかしいねえ。数が合わない。うちの子どもは二人のはずなのに」

私は聞いた。何を数えているのか、と。祖母は私を見て、少し困った顔で言った。

「ああ、なんでもないよ。ただね、おまえと弟と、二人のはずなのに。この家には時々、もう一人子どもがいる気がして。夜、廊下を三人分の足音がすることがあるんだよ」

私はぞっとした。だが祖母はすぐに笑って、「年寄りの気のせいさ」と話を打ち切った。

それから私も気づくようになった。家の中にもう一人いる気配。弟と遊んでいると、時々視界の隅に、もう一人子どもが混じっているように感じる。振り向くと誰もいない。弟だけ。だが確かに、さっきまでそこに誰かがいた。

そして決定的なことが起きた。ある日、私は弟と二人で留守番をしていた。私が台所でおやつを二人分用意して居間に戻ると、弟が誰かと楽しそうに話していた。だが居間には弟一人。弟は空(から)の空間に向かって笑いかけ、頷き、まるで目に見えない友達と遊ぶように。

「お姉ちゃん」と弟は私に気づいて言った。「この子もおやつほしいって。ぼくのお友達、森から一緒に帰ってきたんだ」

私は震えながら古老の家を訪ねた。弟の「森から帰ってきたお友達」の話をすると、古老の顔がみるみる青ざめた。

「……いかん。それはいかん。神隠しに遭った子はな、たいていそのまま還らん。隠し様に連れていかれたままだ。だがごく稀に、還ってくる子がおる。その還ってくる子は決まって『土産』を連れて帰る。隠し様の森に囚われた別の子どもの魂を一緒に連れて。──なあ、よくお聞き。神隠しは等価交換なんじゃ。一人連れていったら一人返す。じゃが返すとき、連れていった子そのものを返すとは限らん。森には何百年ぶんもの、神隠しに遭った子どもの魂が溜まっとる。その中から一人、『身代わり』を返すこともある」

私は恐る恐る聞いた。では帰ってきた弟は本当に弟なのか。古老は目を伏せて言った。

「……半分はおまえの弟じゃろう。だが半分は、森からついてきた別の子の魂かもしれん。あるいはおまえの弟はまだ森にいて、帰ってきたのは身代わりの別の子かも。──見分ける方法は一つある。神隠しから帰った子は『鏡』に正しく映らん。魂が二人分あると、鏡はそれを隠せんのじゃ」

家に帰って、私は弟を姿見の前に連れていった。何気ないふうを装って、「ねえ、一緒に鏡見よう」と。

弟が鏡の前に立った。私は息を呑んだ。鏡の中の弟は二重になっていた。輪郭がぶれるように、弟の姿にもう一人、別の子どもの姿が重なって映っていた。青白い顔の知らない男の子。それが弟のすぐ後ろから弟の肩に手を置いて、じっと鏡越しにこちらを見ていた。そして、にたりと笑った。

弟は鏡を見て無邪気に言った。「あ、お友達も映ってるね。言ったでしょう、一緒に帰ってきたって」

その夜、私は両親に訴えた。弟に何かが憑いている、と。だが両親は取り合わなかった。「無事に帰ってきた弟に何を言うんだ」と、むしろ私を叱った。無理もない。両親にはただ、愛する息子が戻ってきただけなのだから。

だが日が経つにつれ、弟は変わっていった。夜中に知らない言葉でうなされる。誰も教えていない古い遊び歌を口ずさむ。そして時々、まるで別人のような冷たい目で私を見る。「お友達」が弟の体の主導権を少しずつ奪っていくように。

そしてある晩、弟が私の枕元に立っていた。だがそれは弟の顔をして、弟ではなかった。鏡の中のあの青白い男の子の表情で、弟の口が動いた。

「お姉ちゃん。ぼくね、もう森に帰りたくないんだ。ずっと暗い森に閉じ込められて、何百年もひとりぼっちだった。やっとこの体を見つけたんだ。あたたかい家族のいる、この体を。だからね、ほんとうの弟はぼくが森に返してきた。ぼくと入れ替わりに。──お姉ちゃん、気づいてたんでしょう。でももう遅いよ。お父さんもお母さんも、ぼくを弟だと信じてる。誰もほんとうの弟を覚えてなくなる、あと少しで」

私は決意した。本当の弟を取り戻すために、あの鎮守の森の隠し様の祠へ行く。私は眠る「弟」を起こさぬよう、夜明け前に一人、森へ入った。

森は深く、朝もやが立ち込めていた。私は子どもの頃の記憶を頼りに祠を目指した。やがて木々の奥に、小さな古い祠が見えた。「隠し様」。その前に立って、私は必死に祈った。「弟を返してください。本当の弟を。連れていった身代わりは要りません。どうか元に戻してください」と。

祠の奥の暗がりが、ぞわりと動いた。そして声がした。無数の子どもの声が重なったような声。

「返してほしければ等価交換だ。一人連れていったぶん、一人よこせ。おまえがここに残るなら、弟を返す。身代わりの子も、おまえと交換でこの体から出ていく。どうする、おまえが森に残るか」

私は迷わなかった。「私が残ります。弟を返してください」。そう答えた。弟を取り戻せるなら、私が森に囚われてもかまわない。姉として当然の選択だった。

祠の暗がりから冷たい手が無数に伸びて、私を中へ引きずり込もうとした。そのとき、森の入口から声がした。「お姉ちゃん!」。振り向くと、弟が走ってきていた。あの青白い男の子の憑いた弟が。だがその顔は今は、私のよく知る本当の弟の表情だった。弟は叫んだ。

「だめだ、お姉ちゃん。行っちゃだめだ。──ぼく、思い出したんだ。お姉ちゃんがぼくのために、ここまで来てくれたから、ぼく目が覚めたんだ。憑いてたあの子を押し返せたんだ。ぼくはぼくだ。お姉ちゃんの弟だ。だからお姉ちゃんが身代わりになる必要なんてない」

弟は私の手を掴んで祠から引き離した。その瞬間、弟の体からすうっと青白い男の子の魂が抜け出て、祠の暗がりへと吸い込まれていった。「ずるいよ。ぼくもあたたかい家族がほしかった。ぼくも帰りたかったのに」と泣きながら。森はしんと静まり返り、朝日が差し込んだ。私と弟は二人で森を出た。今度こそ本当の弟と二人で。──それから何十年も経った。弟は立派に成長し、家庭を持った。あの神隠しのことは、二人ともほとんど話さない。ただ弟には一人娘がいる。その子が七歳になった去年の夏、あの村へ里帰りしたとき、娘が鎮守の森で遊んでいて、ほんの三十分ほど行方が分からなくなった。すぐに見つかった。娘はけろりとして言った。「暗いところで優しい男の子と遊んでたの。ぼくもおうちに帰りたいなって、その子言ってた」と。私と弟は顔を見合わせた。そしてその夜、姿見の前に娘を立たせるのを、二人ともどうしても怖くてできずにいる。