向かいの部屋
あたしは五歳の娘と二人で暮らしてる。
夫とは去年別れた。慰謝料も養育費もあてにならなくて、あたしはパートを掛け持ちして、なんとか食いつないでた。だから家賃の安さは何よりありがたかった。駅から遠い古い団地、四階の角部屋。相場よりずっと安くて、あたしは飛びついた。安いには理由がある。今ならそう思う。でもあのときは、そんなこと考える余裕なかったの。
越してきてすぐ、娘のユイが言ったの。「ママ、おむかいのおへや、こどもがいるよ」って。うちの玄関の真向かい、同じ四階の角部屋。廊下を挟んで向かい合ってる、その部屋。あたしは「お友達できるといいね」って笑って答えた。子どもがいるなら心強いな、なんて。……その部屋がどういう部屋か知らずに。
夜になると、向かいの部屋から聞こえてくるようになった。
子どもの声。女の子の歌声。数え歌みたいなの。「ひとーり、ふたーり、みたーり……」って、ゆっくり数えていく。壁越しじゃなくて、玄関のドアの向こうから。廊下を挟んで。あたしは最初、隣の子が遊んでるんだと思ってた。
でも、その歌は毎晩決まって、同じところで止まるの。「……なな、や、ここのつ、とお」。十まで数えると少し黙って、それから、こう続けるの。「とおまでかぞえた。もういいかい」って。まるでかくれんぼの鬼みたいに。あたしはなんだか背筋が寒くなって、ユイをぎゅっと抱きしめて寝たの。
ある晩、あたしは思い切って玄関のドアスコープから向かいを覗いてみた。歌が聞こえてる、まさにその時に。……向かいのドアの前に、小さな女の子が立ってた。こっちに背を向けて、おかっぱ頭の。そして、その子はドアスコープを覗いてるあたしに気づいたみたいに、くるっと振り向いて、にっこり笑ったの。ドアスコープの丸い視界いっぱいに、その白い顔が迫ってきて、あたしは悲鳴を飲み込んだ。
次の日、あたしは管理人さんに聞いてみたの。向かいの部屋の子どものこと。うるさいって苦情じゃなくて、ただ確かめたくて。管理人さんはけげんな顔で言った。
「向かい? あの部屋はずっと空き部屋ですよ。もう十年、誰も住んでません。……ああ、あそこはね、昔事故があってね。小さい女の子が亡くなったんです。それ以来、誰も居着かなくて」
あたしは頭が真っ白になった。じゃあ、あの歌は。あの女の子は。ユイの言ってた「向かいのお友達」は。……その日、家に帰ると、ユイが上機嫌で言ったの。「ママ、あのね、おむかいのおねえちゃんとね、あそぶやくそくしたの。かくれんぼ。おねえちゃんがね、じゅうまでかぞえたら、ユイをさがしにくるんだって」
あたしはユイの肩を掴んで聞いた。声が震えてた。「そのお姉ちゃんと、どこで約束したの」。ユイはきょとんとして答えた。「まいばん、ユイがねてるとね、おねえちゃんが、おふとんのなかに、はいってくるの。それでね、ちいさいこえで、おしえてくれるの。かくれんぼのルール」
あたしは必死だった。引っ越そうと思った。でもお金がなかった。敷金も礼金も引っ越し代も。今の団地に越してきたばかりで、貯金は底をついてた。すぐには逃げられない。あたしはせめてと思って、お守りを買ってきて玄関に貼った。塩を盛った。ユイの枕元に置いた。気休めだって分かってた。でも、それしかできなかったの。
数え歌は夜ごと大きくなった。そして数える速さが上がっていった。最初はゆっくりだったのに、「ひとり、ふたり、みたり」って、だんだん早口に。まるでかくれんぼの鬼が待ちきれなくて、急いで数えてるみたいに。あたしは悟った。あの子は、ユイを探しに来るその時を心待ちにしてる。十まで数え終わる、その時を。
そして、その晩。とうとう歌が止まった。「……とお。もういいよ」。いつもの「もういいかい」じゃなかった。「もういいよ」だった。かくれんぼの鬼が探しに行く合図。あたしは飛び起きて、ユイの布団を見た。ユイはいなかった。布団はもぬけの殻。玄関のドアが開いてた。内側からチェーンまで外して。あたしが二重にかけたはずの鍵が。
あたしは裸足で廊下に飛び出した。ユイの名前を叫びながら。廊下はしんと静まり返ってた。そして、向かいの空き部屋のドアが。十年、誰も開けなかったはずのドアが、すうっと細く開いてた。中から薄暗い光が漏れてた。あたしは迷わなかった。ユイがそこにいる。それだけ分かった。あたしはそのドアを開けて飛び込んだ。
中は埃だらけの空っぽの部屋だった。家具も何もない。ただ奥の押し入れが開いてて、その中にユイがいた。膝を抱えてうずくまって、かくれんぼで隠れてるみたいに。あたしは駆け寄って、ユイを抱きしめた。無事だった。よかった。本当によかった。ユイはあたしの腕の中で、寝ぼけ眼で言った。「ママ……ユイ、じょうずにかくれてたでしょ。おねえちゃん、まだみつけられないの」
あたしはユイを抱いて、その部屋を出た。次の月、無理をして借金をして、あたしたちは遠くの町へ引っ越した。もう、あの団地には二度と近づかない。──でもね。引っ越してから、ユイが時々言うの。夜中に、ふと目を覚まして。「ママ。おねえちゃんが、まださがしてる。ユイのこと、あきらめないって。だって、かくれんぼは、みつかるまでおわらないもん」って。あたしはそのたびに、ユイを強く抱きしめる。あの子は十まで数え終わった。鬼はまだユイを探してる。かくれんぼは、鬼が見つけるまで終わらない。あたしは知ってる。だからユイを絶対に見つけさせない。あたしが生きてるかぎり。