四時四十四分
僕はあんまり強い子じゃない。
中学二年で、背も低くて声も小さくて。クラスでは目立たない、いてもいなくてもみたいな存在だった。だから、掃除をサボったクラスのみんなのぶんまで、僕が居残りで掃除をさせられることになっても、僕はいやだって言えなかった。ただうつむいて「うん」って頷いた。いつも、そうなんだ。
その日、僕が掃除させられたのは旧校舎だった。もうほとんど使われてない、古い木造の校舎。取り壊しが決まってて、来月にはなくなる。放課後の旧校舎はしんとして薄暗くて、僕は正直すごく怖かった。でも先生に言われたら断れない。僕はぞうきんを握りしめて、一人で廊下を拭き始めた。
旧校舎の廊下の突き当たりに、大きな掛け時計があった。木の枠の古い時計。だけど、その時計は壊れてて、針がいつも同じ時刻を指してた。四時四十四分。「四」が三つ。なんだかいやな時刻だな、って僕は思った。
掃除をしてると、どこからか声が聞こえた。
「〇〇くーん」。僕の名前だ。誰かが僕を呼んでる。でも、その声には聞き覚えがあった。忘れられるはずなかった。……去年死んだ、同じクラスのタカシくんの声だった。
タカシくんは去年、この旧校舎で死んだ。屋上から落ちて。事故だって学校は言ってた。でも、みんな知ってた。タカシくんはいじめられてた。僕みたいな弱い子。でも、僕よりもっとひどくいじめられてた。そして僕は。……僕は、タカシくんがいじめられてるのを見て、見ぬふりをしてた。助けなかった。怖かったから。次は自分が標的にされるのが。
声は廊下の奥から聞こえた。僕は動けなかった。ぞうきんを握ったまま。声はだんだん近づいてくる。「〇〇くーん。あそーぼ」。タカシくんは生きてたころ、僕にだけは優しかった。二人ともいじめられっ子だったから、よく「あそぼう」って誘ってくれた。僕は、その誘いも周りの目が怖くて断ってばかりだった。ごめん、タカシくん。僕は心の中で謝った。
ふと、あの壊れた掛け時計を見た。すると、どうだろう。止まってたはずの針が、ゆっくり動いてた。カチ、コチと。時刻は四時四十四分の少し前、四時四十三分。針が進んでいく。四十四分に近づいていく。
僕はなぜだか分かった。この時計が四時四十四分になった、その瞬間、何かとても良くないことが起こる。タカシくんが落ちたのも、たしかその時刻だったって噂で聞いたことがあった。四時四十四分。旧校舎の時が止まった時刻。
逃げなきゃ。僕はそう思った。でも足が動かない。声だけがどんどん近づいてくる。廊下の曲がり角の向こうから。もうすぐ、そこまで。「〇〇くん。みつけた」。角からぬうっと影が伸びた。タカシくんのシルエット。でも、その形はどこかおかしかった。首がへんな方向に曲がってて、手がだらんと長く伸びてて、落ちたときのままの姿で。
時計が、カチ、と鳴った。四時四十四分。
その瞬間、旧校舎の電気が全部消えた。真っ暗。窓の外もなぜか真っ暗で、まるで校舎ごと、どこか別の場所に閉じ込められたみたいだった。そして僕の手を、冷たい手が握った。ぬるっとした湿った子どもの手。タカシくんの手だった。暗闇の中で、その手が僕を引っ張った。屋上の方へ。「いっしょにいこうよ。〇〇くん。ずっとひとりでさみしかったんだ。きみだけは、ぼくとあそんでくれるよね」
僕は引きずられながら、必死に考えた。タカシくんは僕を恨んでるんだろうか。助けなかった僕を。道連れにしようとしてるんだろうか。……でも、違う気がした。タカシくんの声は恨んでるっていうより、ただただ、さみしそうだった。ひとりで死んで、ひとりでこの旧校舎に閉じ込められて、誰にも遊んでもらえなくて。ずっとずっと「あそぼう」って呼び続けてた。誰も応えてくれない、その声で。
僕は勇気を振り絞った。生まれて初めて。引きずられながら、暗闇に向かって言ったんだ。「ごめん、タカシくん。あのとき助けられなくて、ごめん。……でも、僕はまだ、いっしょにはいけない。生きてるから。かわりに約束する。もう逃げない。今度いじめられてる子がいたら、ちゃんと助ける。タカシくんにしてあげられなかったこと、他の子にするから。だから」
手の力が、ふっと緩んだ。
暗闇の中で、タカシくんの声が聞こえた。今度はさっきより、ずっと穏やかだった。「……ほんとう?」。僕は頷いた。「うん。ほんとう。約束する」。すると、僕の手を握ってた冷たい手が、そっと離れた。そして、タカシくんが最後に言ったんだ。「うれしいな。ぼくのこと、おぼえててくれて。じゃあ、これで、ぼく、やっといけるや。ばいばい、〇〇くん。約束、まもってね」
ぱっと電気が点いた。旧校舎の廊下は元通り。窓の外は、まだ夕暮れの赤い光。あの壊れた掛け時計は、また四時四十四分で止まってた。でも、なんだかさっきまでとは違う静けさがあった。タカシくんの気配は、もうなかった。成仏できたのかな。僕はそう思いたかった。
それから僕は、少しだけ変わった。ほんの少しだけどね。今でも強い子じゃない。でも、いじめを見て見ぬふりはしなくなった。怖くても、声が震えても、「やめなよ」って言えるようになった。タカシくんとの約束だから。──旧校舎は予定通り取り壊された。あの掛け時計がどうなったかは知らない。でも時々思うんだ。もし、あの時計がまだどこかにあって、また四時四十四分に動き出したら、今度は誰を呼ぶんだろう。次に、あの校舎でひとりぼっちになる弱い子を。──だから僕は、約束を守り続ける。誰も、ひとりぼっちにしないように。