三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第二十四話 — 読了目安 約20分

深夜二時の巡回

わたしは総合病院の看護師をしています。もう十五年になります。

夜勤は慣れています。夜の病棟は静かで、独特の緊張感があります。ナースステーションに二人。担当のフロアを二時間おきに巡回する。眠っている患者さんの呼吸を確かめて、点滴をチェックして。ただ、それだけの仕事です。怖いと思ったことは、正直これまでありませんでした。理屈で割り切れる性格なので。……この病棟に配属されるまでは。

問題の病棟は、本館のいちばん奥の五階。古い病棟でした。近く建て替えが決まっていて、患者さんも少なめ。半分くらいの病室が空いていました。わたしがそこへ異動になって、最初の夜勤の晩。先輩の看護師から一つだけ、申し送りがありました。

「五〇八号室だけね、巡回のとき、あんまりじっくり見ないで。……ドアの窓から、ちらっと確認するだけでいいから。中には入らないで。理由は聞かないで。とにかく、そういう決まりなの」

五〇八号室は空き部屋のはずでした。カルテ上も、入院患者はゼロ。ベッドはあるけれど、誰も使っていない。なのに、なぜ「見るな」なんて決まりがあるのか。わたしは理屈屋ですから、気になって仕方がありませんでした。

その晩、深夜二時の巡回のとき。わたしはつい、五〇八号室のドアの窓を覗き込んでしまいました。「ちらっと」のつもりが、じっと。……そこには患者さんがいました。空き部屋のはずのベッドに。年配の女性。点滴に繋がれて、目を閉じて眠っている。胸がゆっくり上下している。生きている患者さんにしか見えませんでした。

わたしは驚いて、ステーションに戻り記録を確認しました。五〇八号室、入院患者なし。おかしい。誰かがいる。無断で入り込んだ不審者かもしれない。わたしは、もう一人の夜勤の看護師にそのことを話しました。すると彼女は顔色を変えて言いました。「見ちゃったの……。だから言われたでしょう、じっくり見るなって」

その夜から、五〇八号室からナースコールが鳴るようになりました。

深夜二時。決まって、その時刻。ステーションのランプが点いて、ブザーが鳴る。表示はいつも「508」。誰もいないはずの部屋。マニュアルでは、ナースコールが鳴れば駆けつけなければなりません。でも先輩たちは、五〇八のコールだけは無視するのが決まりだと言いました。「行っちゃだめ。あれに応えたら、連れていかれるから」

連れていかれる。その意味を、わたしはじきに知ることになります。ある晩、新人の看護師が五〇八のコールに応えてしまったのです。決まりを知らずに。まっすぐその部屋に駆けつけて。……それきり彼女は戻ってきませんでした。翌朝、五〇八号室で倒れているのが見つかりました。命に別状はなかったけれど、彼女はそれから二度と目を覚まさなくなりました。植物状態というのでしょうか。ベッドに横たわったまま。まるで、あの五〇八号室の患者さんと入れ替わったみたいに。

わたしはどうしても真相が知りたくて。夜勤の合間に、古い病院の記録を調べました。理屈で割り切りたかったのです。五〇八号室にいる、あの女性はいったい誰なのか。

古い入院記録の中に、その人はいました。三十年以上前、長く五〇八号室に入院していた女性。身寄りがなく、誰も見舞いに来ず。長い闘病の末に亡くなった。深夜二時に、ナースコールを押しながら。……そして記録には、こうありました。その晩、担当だった看護師がうたた寝をしていて、ナースコールに気づくのが遅れた。看護師が駆けつけたときには、もう手遅れだったと。

その女性はたった一人で、暗い病室で助けを求めながら亡くなったのです。誰も来てくれないまま、ナースコールを押し続けて。……だから今も、彼女は深夜二時にナースコールを押し続けている。誰か来て。今度こそ気づいて。今度こそ助けて、と。そして、応えて来てくれた看護師を離さない。ようやく来てくれた、その人を。もう二度と一人にはなりたくない、と連れていってしまう。あの寂しい五〇八号室へ。

わたしは、その真相を知って決められませんでした。無視し続けるのが決まりです。でも、あの人はただ助けを求めているだけ。恨みではないのです。ただ寂しくて、ただ一人が怖くて。三十年も、暗い部屋でコールを押し続けている。──理屈屋のわたしですが、その晩、深夜二時のコールが鳴ったとき、わたしは決まりを破りました。五〇八号室へ向かったのです。ただし、連れていかれない方法を一つだけ考えて。

わたしはその部屋に入りました。ベッドには、あの女性がいました。目を開けて、こちらを見て、骨ばった手を伸ばして。「やっと来てくれた」と囁きながら。──わたしはその手を握り返しました。連れていかれるのを覚悟で。でも、その前に、わたしは看護師として当たり前のことをしました。彼女の話を聞いたのです。何がつらいですか。どこが痛いですか。寂しかったですね。ずっと一人で怖かったですね。もう大丈夫ですよ、と。手を握って、ずっとそばにいて。夜が明けるまで。

朝が来ました。わたしは連れていかれませんでした。五〇八号室で朝日を浴びて、生きて座っていました。ベッドの女性は、もういませんでした。三十年ぶりに彼女は、ようやく安心して逝けたのだと思います。誰かに話を聞いてもらえて、手を握ってもらえて、一人じゃなくなって。──それ以来、五〇八号室からナースコールが鳴ることはなくなりました。連れていかれた、あの新人の看護師も、その朝、嘘のように目を覚ましました。何も覚えていないと言って。わたしは今も、あの病棟で夜勤を続けています。でも、決まりが一つ変わりました。五〇八号室のコールには、無視ではなく「ちゃんと応える」。ただし、恐れず恨まず、看護師として。──だって、ナースコールは助けを求める声です。それに応えるのが、わたしたちの仕事ですから。生きている人にも、もういない人にも。