見守り
ストーカーに遭ったのは、二十六歳の秋だった。
相手は、よく行くコンビニの店員だった。名前も知らない。ただ、わたしがレジに並ぶと、決まってその男が対応した。釣り銭を渡すとき、少しだけ指に触れてくる。気持ち悪いなと思っていたが、それだけなら、よくある話だ。
おかしくなったのは、家までつけられていると気づいてからだ。夜、コンビニを出て歩き出すと、少し後ろを同じ足音がついてくる。振り返ると、街灯の下に、あの店員が立っている。目が合っても、逃げも隠れもしない。ただ、じっとこちらを見て、にこりと笑う。
ポストに手紙が入るようになった。差出人の名前はない。中には、その日わたしがどこで何をしたかが、細かく書いてあった。何時に家を出て、どの電車に乗り、昼に何を食べたか。まるで一日じゅう、真横で見ていたように。
手紙は、いつも同じ一文で終わっていた。「今日も、見守っています」。
わたしは警察に相談した。何度も通った。ようやく被害届が受理され、相手の身元も割れた。近くのアパートに住む、三十代の男だった。接近禁止の話が進み始めた矢先、その男は死んだ。
踏切事故だった。深夜、下りている遮断機をくぐって線路に入り、電車にはねられた。目撃者はいない。自殺か事故か、警察にも判断がつかないという。わたしのアパートから、歩いて五分の踏切だった。
これで終わった。心底、そう思った。警察の人も「もう安心してください」と言った。わたしは、久しぶりにぐっすり眠った。
男が死んで、三日後の朝。玄関のドアを開けようとして、足元に気づいた。
玄関マットが、少しずれている。めくると、下に一枚の紙が挟んであった。折りたたまれた、あの手紙と同じ便箋。
心臓が縮んだ。震える手で開いた。そこには、昨日のわたしの行動が、いつもの細かい字で書いてあった。何時に起きて、何を着て、どのスーパーに寄ったか。全部、当たっていた。
最後の一文も、同じだった。「今日も、見守っています」。
男は死んでいる。三日前に。なのに、昨日のわたしを見て、これを書いた者がいる。わたしは、その場で膝から崩れた。共犯者がいたのだ、と最初は思った。あの男に、仲間がいて、遺志を継いでいるのだと。
警察にもう一度、相談した。だが、筆跡は、死んだ男のものと完全に一致した。生きている人間が真似たにしては、あまりに完璧だと、鑑定の人が言った。
手紙は、毎朝届くようになった。玄関マットの下、郵便受け、時には冷蔵庫の中。鍵はかけている。二重にかけている。それでも、朝には必ず、昨日のわたしの一日が、そこに置かれている。
内容は、日ごとに、細かくなっていった。以前は外での行動だけだった。それが今は、家の中のことまで書いてある。「二十二時十四分、入浴。長い」「二十三時二分、ベッドの中で、スマホ。一時間七分」。誰も、いないはずの部屋の中を、真横で見ていなければ、書けないことばかりだった。
引っ越した。誰にも行き先を言わず、隣県のマンションに移った。オートロックで、防犯カメラがいくつもある、セキュリティの厳重な物件を選んだ。もう、追ってこられるはずがない。そう信じたかった。
引っ越して、最初の朝。玄関マットの下に、手紙があった。
「お引っ越し、おめでとうございます。前の家より、日当たりがいいですね。見守りやすくて、助かります」。
わたしは、泣きながら、部屋じゅうを探した。どこかにカメラが仕掛けてあるのだと思った。天井、コンセント、火災報知器。何も、なかった。業者を呼んで調べてもらっても、盗撮の機材は一つも見つからなかった。
手紙は、続いた。そして、あるときから、内容に「わたし以外のこと」が混じるようになった。
「今日、あなたに親しげに話しかけてきた、会社の男。ああいうのは、よくないです」。その手紙の翌週、その同僚は階段から落ちて、足を折った。
「エレベーターで一緒になった、上の階の女。あなたを、じろじろ見ていました。感じが悪い」。その女性は、数日後、原因不明の高熱で入院した。
男は、わたしに近づく人間を、順番に、遠ざけていた。死んでもなお、わたしの周りを、掃除するように。誰も、わたしに近づけさせないように。
わたしは、藁にもすがる思いで、拝み屋のような人を訪ねた。母のつてで紹介された、年老いた女性だった。
その人は、わたしの背中を長いこと見つめてから、静かに言った。
「気の毒にねえ。あんたに憑いてるのは、恨みじゃないんよ。もっと厄介なもんや。──愛情のつもりなんよ、これ」
愛情。その言葉に、鳥肌が立った。
「生きてるときはな、あんたを追いかけるのに、体がいった。家までつけて、手紙を書いて、疲れる。距離もある。でも、死んで、体を捨てたやろ。もう疲れん。距離もない。だからあの男は、死んで、やっと『理想の見守り』ができるようになったんよ。二十四時間、あんたの真横で、まばたきもせず、見つめ続ける。それが、あれのいちばんの幸せなんや」
わたしは、震える声で聞いた。祓えないんですか、と。
その人は、首を横に振った。
「恨みなら、祓える。話を聞いて、無念を解いてやればええ。でも、これは違う。あれは、無念どころか、満たされとる。今がいちばん幸せなんや。満たされとるものは、剥がれん。しがみついて離れん。──ひとつだけ、方法があるとすれば」
その人は、そこで言葉を切り、わたしの目を見た。
「あんたが、あれのことを、完全に忘れることや。名前も、顔も、この一年のことも、ぜんぶ。見守る相手が、自分のことを、これっぽっちも意識せんようになったら。あれは、見守る意味を失う。そうしたら、いつか、ふっと消えるかもしれん。……でもな、それは、とても難しいことや。だって、あんた、今この瞬間も、あれのことを考えとるやろ」
それから、一年が経つ。
わたしは、あの男のことを、忘れようと必死に努力した。カウンセリングにも通った。手紙は、読まずに、封も切らずに、捨てるようにした。相手にしなければ、意識しなければ、消えてくれるかもしれない。そう信じて。
手紙の数は、少しずつ減っていった。以前は毎朝だったのが、三日に一度、一週間に一度になった。効いている。そう思った。あと少し。あと少しで、わたしはあれを、完全に忘れられる。そうしたら、あれは消える。
そして、先月。とうとう、ひと月まるまる、手紙が来ない日が続いた。わたしは、久しぶりに、心から笑えた気がした。忘れられた。勝った。あれは、消えたのだ。
昨日、そのことを、母に電話で報告した。「もう大丈夫。あの手紙、ぜんぜん来なくなったの」。母は、電話の向こうで、しばらく黙っていた。それから、ためらいがちに、こう言った。「あんた……何の話をしてるの? ストーカーって、なあに。あんた、そんな目に遭ってたの? いつ?」。母は、何も、覚えていなかった。一年前、拝み屋を紹介してくれたのも、警察に一緒に行ってくれたのも、母なのに。わたしは、ぞっとした。そして、悟った。忘れたのは、わたしじゃない。あれが、わたし以外の全員に、わたしのことを、忘れさせているのだ。周りから、一人ずつ。わたしを知る人間が、いなくなっていく。誰も、わたしを見ていない世界に、変えられていく。──だって、そのほうが、あれは、わたしを独り占めできるから。今、この部屋で、わたしを見ているのは、もう、あれだけだ。