三分怪談

3分で読めるホラー掌編

長編 第二十六話 — 読了目安 約20分

事故物件

俺は、その手の話を、まったく信じていなかった。

幽霊なんているわけがない。事故物件が安いなら、むしろ得だ。そういう男だった。だから、相場の半額で借りられるその一軒家を見つけたとき、迷わず飛びついた。告知事項ありの、いわくつき。前の住人一家が、その家で亡くなっている、という。心中か、無理心中か、不動産屋も詳しくは言わなかった。俺には、どうでもよかった。安ければいい。

木造二階建て、庭付き。一人で住むには広すぎるくらいだ。引っ越しの日、俺は上機嫌だった。友達を呼んで、リビングで酒を飲んだ。「よく事故物件なんか住めるな」と気味悪がる連中を、俺は笑い飛ばした。

その最初の夜だ。

一階の和室で寝ていた。夜中、ふと目が覚めた。理由もなく。部屋は真っ暗で、しんとしている。ただ、押し入れの襖が、少しだけ開いていた。寝る前は、閉めたはずだ。

その隙間から、女が、こちらを見ていた。

白い顔。長い髪。四十歳くらいの女だった。暗闇の中でも、はっきりと見えた。半分開いた襖の陰から、片目だけを出して、俺を、じっと見ている。

普通なら、悲鳴を上げて逃げる場面だ。だが、俺は、逃げなかった。腹が立ったのだ。俺の家で、勝手なことをするな、と。俺は、女を睨み返して、こう言った。「出てけ。ここは、俺の家だ」。女は、すっと、襖の陰に引っ込んだ。それきり、朝まで、何も起きなかった。

今思えば、あのとき、逃げるべきだった。逃げなかったことを、あれは、承諾と受け取ったのだ。「この家で、一緒に暮らしていい」という、承諾と。

次の日から、女は、毎晩出るようになった。

だが、俺は、慣れてしまった。悪さをするわけでもない。ただ、暗い部屋の隅に立って、俺を見ているだけだ。最初のうちは、押し入れの中や、廊下の突き当たりにいた。俺が寝ると、少し離れた場所から、じっと見ている。

だが、女の立つ位置は、夜ごとに、俺に近づいてきた。

一週間目には、部屋の入口。二週間目には、部屋の真ん中。三週間目には、俺の布団の、足元。俺が寝返りを打つと、その視界の端に、必ず、白い足が二本、立っている。俺は、それでも、逃げなかった。意地だった。こんなものに、負けてたまるか、と。

そして、女は、一人ではなくなった。

ある夜、目を覚ますと、足元に立つ女の、後ろに、もう一つ、影があった。小柄な影。子どもだった。次の夜には、二人。男の子と、女の子。さらに次の夜には、女の隣に、背の高い、男の影も加わった。父親らしかった。

前の住人一家。この家で死んだ、四人家族が、夜ごと、一人ずつ、俺の枕元に、揃っていった。全員、無言で、まばたきもせず、俺を、見下ろしている。まるで、新しく加わった家族を、囲んで、眺めるように。

さすがに、気味が悪くなってきた。俺は、意地を張るのをやめて、この家のことを、調べ始めた。

近所の古い住人に聞き回って、ようやく分かった。前の一家は、心中ではなかった。父親が、事業に失敗し、追い詰められた末に、妻と二人の子を手にかけ、最後に自分も死んだ。無理心中だった。だが、地元の人間は、口を揃えて、妙なことを言った。

「あの家はな、その一家が最初じゃないんだ。その前の住人も、一家全員で死んどる。火事でな。そのまた前も、一酸化炭素中毒で、家族四人。……あの家はな、四人家族が、まるごと消える家なんだ。何十年も、そうやって、家族を、飲み込んできた」

俺は、悟った。あの女たちが、俺を、毎晩見つめ、囲んでいる意味を。あれは、恨みでも、脅しでもない。あれは、「待っている」のだ。この家の、次の家族が、揃うのを。

今、この家に住んでいるのは、俺一人だ。あれが囲んでいる、新しい家族というのは、俺のことだ。だが、家族は、四人でなければならない。あと三人、足りない。

だから、あるときから、女は、俺に、話しかけてくるようになった。枕元で、優しい声で、こう囁くのだ。

「あなた、一人で、寂しいでしょう。奥さんを、もらいなさいな。子どもも、二人。この家は、四人でないと、ね。四人、揃えば、あたしたちは、安心して、成仏できるの。あなたたちに、この家を、譲って。──だから、早く、家族を、連れてきて」

俺は、ようやく、逃げる決心をした。こんな家、意地を張る価値もない。引っ越そう、と。

だが、その矢先だった。俺に、恋人ができた。職場の、後輩の女だ。俺のほうから口説いたわけじゃない。向こうから、妙に、積極的に、近づいてきた。とんとん拍子に話が進んで、彼女は、俺の家に、遊びに来たがった。あの、事故物件に。

俺は、断った。あんな家に、彼女を、入れるわけにはいかない。だが、彼女は、なぜか、あの家に、来たがって仕方がない。「早く、あなたの家が見たい」「一緒に、住みたい」。まるで、何かに、急かされているように。

俺は、ぞっとした。そして、気づいた。彼女が、俺に近づいてきたのは、あの女が、仕向けているのだ、と。家族を、揃えるために。妻の役を、連れてこさせるために。彼女の後ろには、いつからか、うっすらと、あの、白い顔の女が、寄り添うように、立つようになっていた。彼女を、操るように。

俺は、彼女と、別れた。ひどい別れ方をした。彼女を、あの家に、近づけないために。彼女を、あの家族の、四人目に、させないために。それが、俺にできる、精一杯だった。

結局、俺は、その家を出た。逃げるように、真夜中に、荷物をまとめて。

今は、狭いワンルームで、一人で暮らしている。事故物件じゃない、普通の部屋だ。もう、女は、出ない。逃げ切った。そう思っている。

ただ、一つ、気がかりなことがある。あの家は、今も、借り手がつかないまま、空き家になっている。四人家族を待つ、あの家が。──先週、別れたはずの、あの後輩から、一年ぶりに、電話があった。妙に、幸せそうな声で、彼女は言った。「わたし、結婚したの。優しい旦那さんと、子どもも二人。中古の一軒家を、すごく安く買えてね。庭付きなの。あなたも、遊びに来てよ」。俺は、住所を聞いて、電話を、取り落とした。あの家だった。あの女は、俺に逃げられたあと、別の四人を、揃えたのだ。彼女は、何も知らずに、笑っていた。「この家、四人にちょうどいいの。まるで、あたしたちが来るのを、待ってたみたいでしょう」。──俺は、彼女に、逃げろと、言えなかった。言ったところで、もう、遅い。あの家では、今夜も、誰かが、押し入れの隙間から、増えたばかりの家族を、数えている。