うちの子じゃない
七歳の息子が、川で溺れた。
夏休みに、田舎の実家へ帰省したときのことだ。近くの川で、あたしがほんの少し目を離した隙に、ユウキは、深みに足を取られた。気づいたときには、川の中ほどで、頭が沈んでいた。あたしは、無我夢中で飛び込んだ。地元の人も駆けつけてくれた。引き上げたとき、ユウキは、息をしていなかった。
顔は、真っ青だった。唇は紫色で、目は半分開いたまま。もう、だめかもしれない。そう思った瞬間、ユウキが、げほっと、水を吐いた。息を吹き返したのだ。あたしは、泣きながら、その小さな体を抱きしめた。奇跡だ、と、みんなが言った。助かった。あたしは、神様に感謝した。
でも、あれは、奇跡なんかじゃなかった。あの川で、あの数分間に、何かが、起きていたのだ。ユウキの体に、あたしの知らない「何か」が、入り込む、その時間が。
最初の違和感は、退院した日の夜だった。ユウキが、あたしの顔を、じっと見て、こう言ったのだ。
「おかあさんは、この子の、おかあさん?」
この子の、と、ユウキは言った。自分のことを、他人みたいに。あたしは、まだ、混乱してるだけだと思った。溺れた影響で、少し、おかしくなっているだけだと。
ユウキは、変わってしまった。
好き嫌いが、まるで逆になった。大好きだったハンバーグを、「こんなもの、食べない」と言って、あたしを睨む。嫌いだったはずの、煮しめや、魚の煮付けを、年寄りみたいに、旨そうに食べる。使う言葉も、七歳の子のものじゃなくなった。「かたじけない」「難儀なことだ」。どこで覚えたのか、古めかしい言い回しを、時々、ぽろりと漏らす。
いちばん、ぞっとしたのは、字だった。まだ、ひらがなもおぼつかなかったユウキが、ある日、すらすらと、達筆な漢字を書いた。あたしには読めない、崩した昔の字だった。書道の先生に見せたら、「これは、明治より前の、古い書き癖ですね。お子さんが、書けるはずが……」と、絶句した。
ユウキは、あたしを、母親として、見ていなかった。あたしが抱きしめようとすると、迷惑そうに、身をよじる。それでいて、時々、あたしを、値踏みするように、じっと見つめて、にたりと笑う。七歳の子どもが、絶対にしない、大人の、いやらしい笑い方で。
あたしは、確信した。この子は、うちのユウキじゃない。同じ顔で、同じ声で、まったく別の、何かだ。
あたしは、あの川のことを、調べた。帰省先の、母に頼んで、地元の言い伝えを、聞いて回ってもらった。
その川には、古い話があった。江戸の頃、その川の淵で、一人の男が、身を投げて死んだという。名主の家の者で、罪を犯して追われ、逃げ場を失って、川に飛び込んだ。以来、その淵は「呼び淵」と呼ばれ、そこで溺れかけた者は、ごく稀に、川の底の「先客」を、連れて上がってくる、と言われていた。
連れて上がった者は、体を、明け渡すことになる。溺れて死にかけた、その数分の隙に、川底の魂が、体に、乗り移るのだ。そして、少しずつ、元の魂を、体の奥へ、追いやっていく。最後には、完全に、入れ替わる。
母の知り合いの、拝み屋の老人は、こう言ったそうだ。
「まだ、間に合うかもしれん。乗り移ったばかりの、憑いたものは、体に馴染みきっとらん。今なら、元の子の魂も、まだ、体の奥に、残っとる。──だが、時間が経つほど、追い出すのは、難しくなる。憑いたものが、体を、完全に、自分のものにしてしまう前に、剥がさにゃならん」
あたしは、その老人に、すがった。どうか、ユウキを、元に戻してください、と。老人は、渋りながらも、承知してくれた。だが、一つ、厳しいことを、言った。
「祈祷の最中、あの子は、必死で、抵抗する。元の子の声を真似て、『おかあさん、助けて』と、泣き叫ぶかもしれん。手を伸ばして、すがるかもしれん。でもな、それは、憑いたものの、罠や。ほんまもんの、あんたの子は、体の奥で、眠っとる。表で泣いとるのは、あれや。──だから、何があっても、あの子に、触れたらいかん。抱きしめたら、いかん。あんたが、母親の情で、触れた瞬間、憑いたものは、その隙に、あんたにも、手を伸ばす」
祈祷の日が来た。
座敷の中央に、ユウキを座らせ、老人が、経を唱え始めた。最初、ユウキは、退屈そうにしていた。だが、経が進むにつれ、様子が変わった。体が、小刻みに震え出し、顔が、苦しげに歪んだ。そして、ユウキが、悲鳴を上げた。
「おかあさん! おかあさん、助けて! 怖いよ、苦しいよ、この人、やめさせて! ぼく、ユウキだよ、ほんとうのユウキだよ! おかあさん、なんで、助けてくれないの!」
それは、あたしの、ユウキの声だった。溺れる前の、甘えん坊の、あの子の声。涙を流して、手を伸ばして、あたしに、すがってくる。あたしは、体が、勝手に動きそうになった。だって、あんなに、苦しんでいる。あんなに、あたしを、呼んでいる。抱きしめて、助けてあげたい。母親なら、当然だ。
でも、あたしは、こらえた。老人の言葉を、必死に、思い出して。歯を食いしばって、両手を、後ろで、握りしめた。触れない。抱きしめない。あれは、罠だ。ほんとうのユウキは、体の奥で、眠っている。今、泣いているのは、あれだ。
あたしが、動かないのを見て、ユウキの顔が、ふっと、変わった。涙が、すっと引いて、無表情になり、そして、憎々しげに、舌打ちをした。大人の、男の声で、こう吐き捨てた。
「……ちっ。情の薄い、女め。これで、揺さぶれば、たいていの母親は、抱きついてくるものを」
祈祷は、朝まで続いた。老人は、命がけで、経を唱え続けた。明け方、ユウキが、大きく、のけぞって、真っ黒な水を、大量に、吐いた。川の、泥の匂いのする水だった。そして、糸が切れたように、ぐったりと、倒れた。
しばらくして、ユウキは、目を覚ました。きょとんとした顔で、あたしを見て、「おかあさん……?」と、言った。あたしの、ユウキの、声で。目に、あの、いやらしい光は、もう、なかった。あたしは、今度こそ、思いきり、抱きしめた。帰ってきた。ほんとうの、ユウキが。あたしは、声を上げて、泣いた。
老人は、疲れ果てた顔で、それでも、少しだけ、微笑んで、言った。「ぎりぎり、間に合ったな。母親が、情に、負けんかったからや。えらかったな」。あたしは、何度も、頭を下げた。
ユウキは、すっかり、元に戻った。ハンバーグを、また、大好きになった。あの、古い字も、もう、書けない。すべて、元通り。あたしたちは、あの田舎には、二度と、帰らないことにした。あの川には、絶対に、近づかない。──ただ、ひとつだけ。あの祈祷の朝から、あたしの、右手が、時々、勝手に、動くのだ。夜、眠っているとき。あたしの意思と関係なく、右手が、枕元で、あの、崩した古い字を、宙に、書いている。読めなかったその字が、最近、少しずつ、読めるようになってきた。──あの座敷で、あたしは、ユウキには、触れなかった。抱きしめなかった。それは、守った。でも、老人は、言い忘れていたのだ。憑いたものは、追い出される、その最後の瞬間に、いちばん近くにいる者へ、飛び移る、ということを。あの朝、ユウキのいちばん近くにいたのは、あたしだった。今、あたしの体の奥で、あたしのユウキは、無事だ。でも、あたし自身が、いつまで、あたしで、いられるのかは、分からない。