贈り主
祖父の遺品に、桐の箱があった。
紐で厳重に縛られ、封じ紙が貼ってある。表には墨で「開けずに、次へ回すべし」とだけ。裏には細かい字で代々の持ち主の名が、二十人分ほど連なっていた。いちばん新しいのが祖父の名。
親戚の一人が由来を知っていた。この箱は「回し物」といって、決して開けず一定の年月ごとに血縁の誰かへ「贈る」決まりなのだという。持っている間、その家には小さな幸運が続く。商売が上向いたり病人が持ち直したり。ただし、とその親戚は声を落とした。
「持ってるだけで、幸運が来る。けどな、贈らずに、ずっと持ち続けると……箱が、『催促』を始める。中のものが、外に出たがってな。だから、頃合いを見て、次の誰かに、回すんや。もろたら幸運、けど、抱え込んだら、いかん」
俺は半信半疑で箱を引き取った。そして確かに、その年いいことが続いた。転職がうまくいき、長く付き合った恋人と結婚が決まった。箱のおかげだとは思わなかった。ただのいい年だと。
だから俺は箱を「贈る」のを忘れていた。というより、こんないい流れをくれる箱を手放したくなかった。強欲だったと思う。
二年目の春から、箱が鳴るようになった。
桐の箱の中で、ことり、ことりと何か軽いものが転がる音。誰もいない部屋で。振ると確かに中で何かが動く。空のはずなのに。夜中にひとりでに鳴ることもあった。
音は月を追うごとに大きくなった。ことりが、ごとりになり、やがてこつ、こつと箱の内側を叩くようになった。まるで中から誰かがノックしているように。
俺は怖くなって、あの親戚に電話した。親戚は事情を聞くと、ため息をついた。
「催促が、始まったんやな。……はよ、贈り。血縁の、誰かに。贈れば、止まる。次の家に、幸運が移って、あんたのとこは、元通りや」
「贈るって、誰に」
「誰でも、血の繋がった者なら。……ただし、一つ、忠告や。贈る相手は、よう選び。この箱はな、幸運をくれるけど、その幸運の『ぶん』は、どこかから、持ってきてる。持ってこられた側は、その分、不運になる。あんたのこの二年の幸運は……たぶん、あんたの、いちばん近い血縁の、誰かの不幸の、上に乗っとる」
俺は思い当たった。この二年、俺が幸運だったあいだ、俺の姉は離婚し、職を失い、体を壊していた。あんなにしっかり者だった姉が、坂を転げ落ちるように。俺の幸運のちょうど裏返しのように。
俺は箱を姉に贈ることができなかった。姉はもう十分、俺の幸運の代償を払っていた。かといって他の血縁——年老いた母や、まだ幼い甥に、この箱の「催促」と「代償」を押し付けることもできなかった。
俺は箱を抱えたまま、どうすることもできずにいる。箱は毎晩鳴る。こつ、こつが、今はどん、どんになった。そして先週から音に混じって声がするようになった。桐の箱の中の小さな声が。
「ねえ。まだ? まだ、つぎのおうちに、いかないの? ぼく、あきたよ。このおうち、もう、あげられるもの、なくなってきたよ。おねえちゃんの、つぎは、だれ? はやく、おしえてよ。おしえてくれないなら」
声は、いつも、同じ言葉で、終わる。
「──じぶんで、さがしに、いくよ。このおうちの、いちばん、しあわせな人から、じゅんばんに。ねえ、いま、いちばんしあわせなの、だれ? ……あ。あかちゃん、うまれるんだね。おめでとう。じゃあ、その子から、もらうね」──妻のお腹の子が来月生まれる。俺は今夜、箱の紐をほどこうとしている。せめて中身をこの目で見て、話をつけるために。開けるな、と書いてある。でも、もうそれしかない。