合わせ目
古い日本家屋を、安く借りられることになった。
築百年以上の平屋。広い座敷がいくつも襖で仕切られている。一人暮らしには広すぎたが家賃が破格だった。難点は床の間のある、いちばん奥の座敷。そこだけなぜか、いつ入ってもひやりと冷たかった。
その座敷の畳は少し変わっていた。ふつう畳は部屋の形に合わせてきっちり敷き詰める。だがその部屋の中央だけ、四枚の畳の角が一点に集まっていた。畳の「合わせ目」が十字になっているのだ。
近所の古老に挨拶に行くと、その家の話になった。古老は家の場所を聞くと、露骨に顔をしかめた。
「ああ……あの家か。あんた、奥の座敷の、真ん中の、畳の合わせ目の上には、物を、置きなさんな。特に、寝床は、絶対に、あそこに、敷いちゃいかん」
理由を聞くと、古老は声を潜めた。
「畳をな。四枚、角を、一点に集めて、敷くのを、『切腹の間』とか、『不祝儀敷き』とか、言うんじゃ。ふつうは、絶対に、やらん、敷き方だ。あの十字の、合わせ目はな。この世と、あの世の、境目が、いちばん、薄くなる、場所なんじゃ。あそこに、寝ると。寝ている間に、体が、境目を、すり抜けて。あっち側に、半分、行ってしまう」
迷信だろう、と思った。だが寝相の悪い俺は、なんとなく気味が悪くて、奥の座敷では寝ないことにした。寝床は手前の明るい部屋に敷いた。
ところが。
朝、目を覚ますと、俺は奥の座敷の、あの十字の合わせ目の真上に寝ていた。手前の部屋で寝たはずなのに。布団ごと移動していた。
一度なら寝ぼけて自分で動いたのだ、と思える。だがそれが毎朝続いた。どんなに手前の部屋で戸を閉めて寝ても、朝には必ず奥の座敷の合わせ目の上にいる。布団の四隅が、畳の十字の線にきっちりと合わせて。まるで誰かが几帳面に、俺をそこに寝かせ直したように。
そして俺は気づき始めた。合わせ目の上で目覚めるようになってから、自分の体がどこかおかしい。
右手が時々、自分の意思と関係なく動く。知らない字を書こうとする。古い崩し字を。左足が歩くとき少し引きずる。俺は怪我などしていないのに。鏡を見ると時々、自分の顔の輪郭がほんの少しずれて見える。まるで印刷が二重になったように。
俺は古老の言葉を思い出した。「あっち側に、半分、行ってしまう」。俺の半分は毎晩、あの合わせ目からあちら側へ行っている。そしてその隙間から、あちら側の誰かの半分が、こちらに入り込んでいるのだ。少しずつ。夜ごとに。
俺は引っ越しを決めた。荷物をまとめ、最後にあの奥の座敷を覗いた。畳の十字の合わせ目。そこに俺の布団が、また敷かれていた。俺はまだ敷いていないのに。そしてその布団は膨らんでいた。誰かが寝ているように。
俺はそっと、その布団をめくった。
そこに寝ていたのは俺だった。眠っている俺自身。だがその顔は半分が俺で、半分が知らない老人の顔だった。ちょうど合わせ目の線を境にして。左半分が俺。右半分が崩し字を書く、あの老人。眠りながら、その二つで一つの顔が薄く笑った。そして俺の側の口が動いて言った。
「やっと、揃うたな。あと、半分。お前の、半分が、こっちに、来たら。わしの、半分が、そっちに、行く。そうしたら、入れ替わりは、完成じゃ。お前は、ここで、百年、眠る。わしが、お前になって、外へ、出る」
俺は布団を放り出して、その家を飛び出した。今は別の街のアパートに住んでいる。畳のない、フローリングの部屋を選んだ。合わせ目のない部屋を。──だが、この頃、朝、目を覚ますと、フローリングの板の継ぎ目の、ちょうど十字に交わった、その真上に俺はいつも寝ている。四隅を線にきっちり合わせて。そして右手が今日も勝手に、崩し字で何かを書いている。読めなかった、その字が、最近少しずつ読めるようになってきた。それがいちばん怖い。