シートベルト
2026.08.28
終電を逃して、タクシーに乗った。
年配の運転手で、愛想はいいが少し疲れた声をしていた。行き先を告げて、あたしは助手席の後ろに沈み込んだ。深夜割増の赤いメーターが静かに数字を増やしていく。
環状線に乗る手前で、運転手がミラーを見て言った。
「お客さん、高速に乗りますんで、シートベルトお願いします」
あたしはもう締めていた。乗ってすぐ癖で締めるタイプだ。そう答えようとしたとき、運転手が続けた。
「——後ろの、真ん中のお客さんも、お願いしますね」
車内がしんとした。
後部座席にいるのはあたしひとりだ。左端にあたしひとり。運転手はミラー越しに後ろを見たまま、返事を待つように黙っている。あたしは動けなかった。真ん中の席を見ることができなかった。
数秒して、あたしのすぐ右で、かち、と音がした。
シートベルトのバックルの嵌まる音だった。
「はい、ありがとうございます」
運転手は何事もなかったように車を出した。あたしは窓の外だけを見て過ごし、家の前で降りた。料金はなぜか二割引きになっていた。理由を聞く勇気はなかった。
走り去るタクシーの後部座席で、右側の窓がすっと下りて誰かが手を振ったように見えた。運転手は今夜も、ああやって数を間違えずに全員を送り届けているのだと思う。