三分怪談

3分で読めるホラー掌編

第三十四話

離れの客

2026.10.05

北陸の鄙びた温泉宿でのことだ。

紅葉の時期、私は一人でその古い宿に泊まった。母屋から渡り廊下で繋がった離れの部屋。静かで、いい部屋だった。ただ、隣の部屋の客が少し気になった。

夕食のあと、隣室から話し声が聞こえてきた。年配の男女の穏やかな会話だ。壁越しに内容までは分からない。仲のいいご夫婦だな、と微笑ましく思った。夜中、風呂に立ったとき、隣室の障子に二人分の人影が映っているのも見えた。

翌朝、朝食の席で私は仲居さんに何気なく言った。

「隣のご夫婦、仲がよくて羨ましいですね。夜遅くまで楽しそうにお話しされていて」

仲居さんの味噌汁を注ぐ手が止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、困ったような、それでいてどこか慣れたような表情で私を見た。

「お客様……昨夜、離れにお泊まりだったのは、お客様お一人だけですよ。あちらの部屋は、もう何年もお客様をお通ししておりません」

私は笑い話にしようとした。だが、仲居さんは笑わなかった。彼女は少し声を落として教えてくれた。

「あの離れの、あちらのお部屋はね。昔、ご常連のご夫婦が毎年紅葉の時期にお見えになっていたんです。それはもう仲のいい、素敵なお二人で。奥様が先に亡くなられて、それでも旦那様はお一人で毎年いらしてね。奥様との思い出の部屋にお泊まりになって。そして、その旦那様も五年前、あの部屋でお休みになったまま……」

仲居さんは手を合わせるような仕草をして続けた。

「それからなんです。あの部屋にお客様をお通しすると、夜中にお二人の話し声がするって。苦情になるので、もうお通ししていないんです。でも、ご心配なさらないでください。お二人とも、とても穏やかな方でしたから。悪さは決してなさいません。ただ、また二人で紅葉を見に来られているだけなんですよ」

私はチェックアウトの前に、もう一度隣室の前を通った。障子は閉まっていた。だが部屋の中から、かすかに二人分の楽しげな笑い声と、そしてこんな言葉が聞こえた。

「今年の紅葉も、きれいだねえ」「ええ、ほんとうに。……来年も、また二人で来ましょうね」──私はそっと手を合わせて、宿を後にした。窓の外の山は燃えるように赤かった。あのお二人には、この景色が今も毎年見えているのだと思う。それは少しも怖いことではなかった。