三分怪談

3分で読めるホラー掌編

第三十五話

四号棟

2026.10.12

学生時代、家賃の安さに惹かれて古い団地に住んだ。

五棟が並ぶ昭和の団地だ。僕の部屋は五号棟の三階だった。入居のとき、隣に住む世話好きのおばさんが一つだけ忠告してくれた。

「あんた、夜中にね、階段を上ってくる音がしても、絶対にドアを開けちゃだめよ。とくに雨の晩は」

理由を聞くと、おばさんは声をひそめた。四号棟が取り壊されずに空き棟のまま残っているのは事故があったからだ、と。ずいぶん前、四号棟の屋上から若い女性が身を投げた。以来、四号棟は封鎖された。だが、その女性は今も団地の階段を上り続けているのだという。

「自分が飛び降りた屋上を探してるのよ。でも、四号棟はもう入れないでしょう。だから、他の棟の階段を片っ端から上っていくの。一階から屋上まで。屋上に着いて、そこが自分の探してる場所じゃないと分かると、また次の棟へ行くの。雨の晩はよく来るわ。あの子が飛んだのも雨の晩だったから」

迷信だと思っていた。だが、梅雨のある雨の晩、僕はそれを聞いた。

深夜、階段を上ってくる足音。ぴちゃ、ぴちゃ、と濡れた足で。一階、二階と、ゆっくり上ってくる。そして僕の部屋のある三階の踊り場で、足音は止まった。

ドアのすぐ外。誰かが立っている気配。そして濡れた指で、ドアをつう、と撫でる音がした。それから囁き声。

「……ここ? ここが、わたしの部屋? 屋上は、どこ?」

僕は息を殺して、布団の中で震えていた。おばさんの言葉を必死で守った。開けてはいけない。返事をしてはいけない。しばらくして足音は、諦めたように、また階段を上っていった。四階へ、屋上へ。そして屋上のドアが、がちゃ、がちゃ、と虚しく鳴る音が聞こえた。

翌朝、僕はおばさんに、ゆうべのことを話した。おばさんは頷いて、こう言った。よく開けなかったわね、偉い、と。そして付け加えた。

「開けるとね、あの子、『あなたの部屋が、わたしの探してた場所だ』って思い込んじゃうの。そうしたら、あなたの部屋のベランダから……ね。だから絶対に開けちゃだめなの」

僕は、その団地を夏の終わりに引っ越した。最後の夜も雨だった。荷造りを終えた深夜、また、あの足音が上ってきた。三階で止まり、ドアを撫でて囁いた。でも、その夜の言葉はいつもと違った。「あなた、いなくなるのね。……さがすの、手伝ってくれたら、よかったのに」。少しだけ寂しそうな声だった。今でも雨の晩は、あの子がまだ屋上を探して、団地の階段を上っているのかと思ってしまう。もう二十年も、たった一人で。