浜のよびごえ
2026.10.26
九州の、小さな漁村で育った。
子どもの頃、盆の時期になると、祖母からきつく言われたことがある。
「盆の間はな、夕方から夜にかけて、海に近づいたらいかん。とくに、浜で名前を呼ばれても、ぜったいに返事をしたらいかんよ」
盆には、海で亡くなった人たちが帰ってくる。だが彼らは、自分の家が分からなくなっている。だから浜で、生きている人の名を呼んで、「その人の家に連れて行ってもらおう」とする。返事をすると、家までついてこられる。そして家の仏壇ではなく、返事をした人に憑いてしまう、というのだ。
迷信だと思っていた。中学の夏、俺は盆の夕暮れに、こっそり浜へ花火をしに行った。友達と二人で。
波打ち際で花火をしていると、沖の方から声が聞こえた。
「……ようすけー。おーい、ようすけー」
友達の名前だった。友達の、洋介の。彼はきょとんとして沖を見た。誰かが暗い海の上から彼を呼んでいる。母親の声にも聞こえた。洋介は「母ちゃんが呼んでる」と言って、返事をしようと口を開いた。
俺はとっさに洋介の口を手で塞いだ。祖母の言葉が頭をよぎったのだ。返事をしてはいけない。洋介はもがいたが、俺は必死で彼の口を塞いだまま、浜から引きずって逃げた。
声は追ってきた。「ようすけー、ようすけー、なんで、へんじ、してくれんの」と。だんだん悲しげに、そして恨めしげに。俺たちは振り返らずに家まで走った。
後で分かったことだ。その年の春、洋介の父親が漁に出たまま、時化で帰らなかった。遺体は上がらなかった。あの声は——沖から洋介を呼んでいたのは、母親の声を真似た父親だったのだと思う。息子を自分のいる海の底へ連れて行こうとして。あるいは、ただ寂しくて、息子に会いたかっただけなのかもしれない。
洋介は今も、その村で漁師をしている。父親の跡を継いで。彼はあの夜のことを覚えていない。口を塞がれて、何が何だか分からなかったからだ。だから俺は教えていない。あの声が誰だったのかを。ただ洋介は今でも、盆の時期になると決まって沖を見て、こう言う。「なあ、誰かに呼ばれてる気がするんだよ。懐かしい声で。でも、誰だか思い出せないんだ」と。俺は、その言葉を聞くたび、あの夜、彼の口を塞いだ手の冷たさを思い出す。