三分怪談

3分で読めるホラー掌編

第五十話

翻訳

ひとり旅で外国の、古い田舎町を訪れた。

ガイドブックにも載っていない迷路のような路地。石造りの家々の壁に、色あせた張り紙があちこちに貼ってあった。読めないその国の文字。わたしは翻訳アプリを起動してカメラをかざしてみた。文字の上に日本語訳が重なって表示される便利な機能だ。

最初の張り紙。訳文が浮かんだ。「はやく、ここから、にげて」。

おかしな訳だ、と思った。誤訳だろう。わたしは隣の、別の張り紙にカメラを向けた。デザインも書体もまったく違う張り紙。だが訳文は同じだった。「はやく、ここから、にげて」。

次の壁の張り紙も。その次も。町じゅうのすべての張り紙が、翻訳アプリを通すと同じ一文になった。「はやく、ここから、にげて」。

気味が悪くなって、わたしは来た道を戻ろうとした。だが路地は入り組んでいて方向が分からない。ふと目の前の、道を示す標識にカメラを向けた。矢印と地名が書いてあるはずの標識に。

訳文が出た。「もう、みちは、ない。ぜんぶ、ここに、つながっている」。

わたしは走り出した。振り返ると、さっきまで無人だった路地に。家々の戸口から住人たちが一人、また一人と出てきて、こちらを見ていた。皆無表情で口を動かしている。声は聞こえない。わたしは震える手で彼らの口元にカメラを向けた。

訳文が重なった。全員、同じ言葉を繰り返していた。「おそかったね」「おそかったね」「もう、あなたも、はりがみに、なる」。

わたしは無我夢中で走り、なんとか大通りに出た。バスに乗り、その町を離れた。翻訳アプリは二度と開かなかった。──家に帰って旅の写真を見返した。あの町で撮った路地の写真。壁に無数の張り紙が写っていた。その一枚に見覚えのある顔があった。わたしの顔写真だった。下にその国の文字で何か書いてある。わたしはもう翻訳しない。訳が分かってしまうから。