三分怪談

3分で読めるホラー掌編

第五十九話

地下四階

その晩、オフィスに残っていたのは俺ひとりだった。

日付が変わる頃、ようやく仕事が片づいた。十二階から一階へ帰るため、エレベーターに乗った。「1」を押すと、箱が静かに降りていき、いつもの見慣れた数字が減っていく。

ところが、箱は一階を通り過ぎた。表示は地下駐車場を示す「B1」になったが、止まらない。「B2」。「B3」。このビルの地下は三階までで、それ以上はないはずだった。なのに、箱はまだ降り続け、表示は「B4」で止まった。

操作盤を見た。ボタンは十二階からB3までで、「B4」のボタンなど、どこにもない。押していないのに、箱はそこで止まった。扉が、ゆっくりと開いていく。

開いた先は、完全な闇で、駐車場の灯りひとつなかった。コンクリートの冷たい匂いだけが流れ込んできて、そこに地下深くの湿った土の匂いも混じっていた。俺は慌てて「閉」を押したが、反応しない。「12」を押しても、動かない。箱は死んだように停まったまま、扉だけを開けていた。

闇の奥から、音がした。

ずる……。ずる……。何か重いものを引きずるような、濡れた布を床に擦りつけるような音だった。それが、一定の間隔で、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。ずる。ずる。間に、ぴちゃという、粘つく音が挟まる。

俺は操作盤を、滅茶苦茶に叩いた。閉じろ。閉じてくれ。音は、着実に大きくなり、もう扉のすぐ外、闇のぎりぎり手前まで迫っていた。俺は、見てはいけないと思いながら、目をそらせなかった。

闇の境目に、長く、節くれだって、爪のない濡れた指が一本かかった。それが、エレベーターの床を掴み、這って乗り込もうとしている。

その瞬間、扉が指を挟んで閉まった。ぶつりという、嫌な手応えがあった。箱が一気に上昇を始めた。俺は、床にへたり込んだ。

一階で、扉が開いた。何事もなかったように、見慣れたロビーが広がっていた。俺は、転がるように外へ出て家に帰った。あの指のことは、忘れようとした。──ただ、その日から俺の右手の人差し指が時々、何かを引っ掻くように、ひとりでに動く。そして、夜ふと気づくと、爪の間に見覚えのない黒い土が詰まっている。この街に、土の地面なんて俺の歩く道にはどこにもないのに。あの指は、今もどこかで、俺の指を挟んだ扉が開くのを待っている気がする。