霧
その日の夕方から、街はおかしな霧に包まれた。
乳白色の濃い霧だった。窓の外を見ると、向かいのマンションも電柱も何も見えず、十メートル先はもう真っ白だ。こんな霧は生まれて初めてで、気味が悪くてテレビをつけたが、どの局も砂嵐だった。ラジオだけがかろうじて入った。
繰り返し流れていたのは、感情のない、合成音声のような声の緊急放送だった。
「……外出はお控えください。窓は施錠してください。そして──霧の中にいるものと、決して目を合わせないでください。繰り返します。目を、合わせないでください」
何かの冗談だと思った。でも声は延々と同じことを繰り返す。俺はだんだん怖くなってきた。とりあえず家じゅうの戸締まりを確かめることにした。玄関、台所の窓、寝室、そして最後にリビングのベランダの掃き出し窓を見て回った。
鍵をかけようと窓に近づいた。カーテンは開いていて、ガラスの向こうは一面の白い霧だった。そのとき、霧の中に何か黒いものがあることに気づいた。
人影だった。ベランダのすぐ外に立っている。いや、違う。距離感がおかしい。その影は霧のずっと奥にあるのに、はっきりと大きかった。異常に大きかった。マンションの三階にいる俺の窓いっぱいに、その影の「腰から下」しか見えないのだ。見上げても、上半身は霧の上へ消えていた。
ビルほどの背丈の人の形が、霧の中にぬうっと立っていた。俺は金縛りにあったように動けなかった。目を合わせるな、というラジオの声が頭をよぎる。でも、その影は顔が霧の上にあって見えないから、合わせようがない。そう安堵しかけた、そのときだった。
巨大な影が、しゃがみ込むようにゆっくりと膝を折り始めた。顔をこちらの高さまで下ろそうとしている。霧の上から、俺と視線の高さを合わせるために、とてつもなく大きな顔が降りてくる。
俺は全力でカーテンを引いた。間に合ったのか分からない。その夜は一睡もせず、カーテンの隙間から光が漏れないように息を潜めて朝を待った。──翌朝、霧は嘘のように晴れていた。街はいつも通りで、何事もなかった。ニュースでも霧のことなど一言も報じられなかった。あの放送も、あの影も、誰も覚えていなかった。──ただそれ以来、俺はどうしても人と目を合わせられなくなった。相手の黒い瞳の奥に、あの日の霧がうっすらとかかっている気がして。そして、その奥から巨大な顔が、こちらを覗き込もうとゆっくり、ゆっくりしゃがみ込んでくる気配がするから。